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神戸地方裁判所 平成5年(わ)114号 判決 1998年3月24日

主文

被告人は無罪。

理由

第一  公訴事実

被告人は、社会福祉法人甲山福祉センターが経営する精神遅滞児施設である兵庫県西宮市甲山町五三番地所在の甲山学園園長として、昭和四七年六月から昭和四九年五月まで勤務していたものであるが、同学園青葉寮の収容児童Xが殺害された殺人被疑事件につき、司法警察職員及び検察官が同学園保母山田(旧姓沢崎)悦子を昭和四九年四月七日逮捕、勾留して捜査したことを違法であるとして、神戸地方裁判所尼崎支部に提起された原告山田悦子ほか二名、被告国及び兵庫県の同支部昭和四九年(ワ)第三一一号国家賠償請求事件につき、兵庫県尼崎市水堂町三丁目二番三四号所在の同支部法廷において、証人として宣誓のうえ、昭和五一年一月一六日及び同年二月二〇日、Xが殺害された昭和四九年三月一九日午後八時ころの山田悦子のアリバイに関して、原告ら訴訟代理人及び被告ら指定代理人の尋問に対し、

一  昭和四九年三月一九日午後七時三〇分ころから被告人が同学園管理棟事務室を出るまでの間の外部から同事務室への電話と同事務室から外部への電話の順序につき、山田悦子から丙谷松子へ、山田悦子から丁沢六江へ、乙谷二夫から丁岡十郎への関連する各電話と丁原太郎からの電話との前後関係について記憶がないのに「まず、丁原太郎から電話があり、次いで山田悦子から丙谷松子へ、山田悦子から丁沢六江へ、乙谷二夫から丁岡十郎への各電話があった」旨、

二  右一記載の電話の後、丙林七江から同事務室へ電話があり、乙谷二夫が通話中、同人から時刻を聞かれて被告人の腕時計を見たが、その時刻について記憶がないのに、「その時刻は八時一五分であった」旨、

自己の記憶に反して虚偽の陳述をし、偽証したものである。

第二  本件の概要

(本件で取り調べた主な証拠は別紙「証拠一覧表」のとおりであり、以下はこれらのうち関係する各証拠を総合して判断したものである。なお、以下においては、必要に応じ具体的に証拠を挙示する場合があるが、その際には請求番号あるいは略称欄の記載によって表示する)

一  事案の概要

本件は、精神遅滞児収容施設である甲山学園内にある浄化槽の中から同学園収容児童Xが死体で発見された事件(以下において「事件」とか「本件事件」というのはこの事件をさす)に関し、X殺害の被疑者として逮捕、勾留された同学園の保母山田悦子(旧姓沢崎。以下「沢崎」という)が同学園の職員二名とともに原告として神戸地方裁判所尼崎支部に提起した国家賠償請求訴訟事件において、沢崎のアリバイを立証する過程でなされた証人尋問の際、同学園の園長をつとめていた被告人が証人としてなした供述について、偽証罪を構成するとして起訴された事案である。

二  甲山学園の概要

1  甲山学園は、社会福祉法人甲山福祉センター(西宮市武庫川町二番九号所在)が経営する精神遅滞児の養護施設(精神遅滞児収容施設)であり、原則として一八歳未満の重度(IQ三五以下)、中・軽度(IQ七五以下)の精神遅滞児を収容し(定員一〇〇名)、これらの収容児童について日常生活を通じての生活指導、訓練を実施し、学齢期に達した者に対しては小・中学教育を行っていた。

甲山学園は、甲山(標高三六〇メートル)西側山麓丘陵地帯に所在(西宮市甲山町《番地略》)し、墓園(西側-北山墓園)、貯水池(南側-北山貯水池)、甲山(東側)に囲まれ、最寄りの駅まで約一・五キロメートル離れ、一般道路から入り込んだ場所に位置しており、付近には人家がまばらに点在するだけである。

甲山学園は、約四万八〇〇〇平方メートルの馬蹄形の敷地の中央部に運動場を設け、この運動場を取り囲むように建物があり、重度の精神遅滞児を収容する「若葉寮」、中・軽度の精神遅滞児を収容する「青葉寮」、園長らの執務する事務室などのある「管理棟」、青葉寮収容児童のための食堂や厨房のある「サービス棟」、授業の行われる「学習棟」、「新学習棟」、用務員の宿舎である「用務員宿舎」及び「倉庫(プレハブ建)」があり、その配置状況は別紙「甲山学園見取図」のとおりである。甲山学園の敷地は、高さ約二・二メートルの金網のフェンスで囲まれて施設外とは区切られており、敷地の南側に設けられた正門以外に学園に出入りできる入口はない。

2  青葉寮は、南向きの玄関を中心に東西に「へ」の字型に伸びる平屋建ての木造建物であり、玄関を入ったところがホールでボイラー室があり、その北側にディルーム(園児の遊戯室、娯楽室として使用され、テレビが設置されている)があり、ディルームから東側が女子棟、西側が男子棟となっている。女子棟の南側には八つの部屋が棟の東端まで並んでおり、ディルームに最も近い部屋が保母室、その東隣が洗濯物の仕分け室となっており、そのほかは園児の居室となっている。男子棟の南側には一〇の部屋が棟の西端まで並んでおり、ディルームに最も近い部屋が保母室となっており、そのほかは園児の居室となっている。女子棟廊下の東端及び男子棟廊下の西端には各非常口があり、通常は施錠されており、開錠は職員が持っているマスターキーによってなされていた。

青葉寮の裏庭(北側)には汚水浄化槽(以下「浄化槽」という)が設けられており、北側は金網をはさんで雑木林と丘陵地帯である。

管理棟は、南東側が表出入口、北西側が裏出入口となっている平屋建ての建物で、表出入口を入った右側が事務室(以下「管理棟事務室」という)となっている。

3  昭和四九年三月当時、甲山学園には、園長である被告人のほか二九名の職員が在籍しており、その内訳は、園長・副園長各一名、指導員一〇名、保母一二名、事務員・ボイラー技師各一名、用務員三名、実習生一名であった。そのうち、青葉寮には指導員三名、保母七名が、若葉寮には指導員七名、保母五名が配置されていた。

青葉寮を担当する職員の勤務体制は、普通の日勤は午前八時四五分から午後五時まで、早出勤務は午前七時三〇分から午後三時三〇分まで、宿直勤務は午前八時四五分から翌日の午前八時四五分までであった。ただし、日曜、祭日の日勤については、交通機関の関係から終業時刻が午後四時三〇分に繰り上げられていた。

4  昭和四九年三月当時、青葉寮には男子三一名、女子一六名の園児が収容されていた。

園児の食事の開始時刻は、朝食が午前八時ころ、昼食が正午ころ、おやつが午後三時ころ、夕食が午後五時ころであり、就寝時刻は小学生以下(年少児)は午後八時、中学生以上(年長児)は午後九時である。夕食後、ディルームでは午後六時ころからテレビがつけられ、それぞれの就寝時刻までこれを見ることができる。

5  社会福祉法人甲山福祉センターは、甲山学園のほか特別養護老人ホーム甲寿園と精神遅滞児通園施設北山学園も経営しているが、これらの施設にはいわゆる押しボタン式電話システムが採用されており、甲山学園の管理棟事務室、同青葉寮男子保母室、同若葉寮職員室、北山学園事務室、甲寿園一階寮母室、同二階寮母室に各一台のほか、付属施設である総合事務所に三台、厨房に一台、診療所に一台、甲山ハウスに一台の合計一二台の電話機が分置されている。

そして、右一二台の電話機には、それぞれ甲山学園用一本(西宮局《番号略》)、北山学園用一本(同局《番号略》)、甲寿園用二本(同局《番号略》、《番号略》)の合計四本の回線番号が表示され、いずれの電話機でも右四本の回線中の未使用の回線を使用して外部へ通話することが可能であり、また、外部からどの回線番号を使用してかけられてきた電話でも通話可能である。外部に電話をかけあるいは外部から電話がかかってくると、すべての電話機の当該使用回線番号を表示してある部分のランプが点滅し、使用中の回線については、その部分のランプが点灯する仕組みになっている。

三  園児の行方不明等

1  昭和四九年三月一七日(日曜日)の青葉寮における日勤者は指導員の乙野一夫(以下「乙野」という)と保母の乙川秋子(以下事件当時も使用していた旧姓である「乙原」という)、宿直者は指導員の乙谷二夫(以下「乙谷」という)と保母の沢崎であり、同月一九日(火曜日、以下において年の記載のないものについてはことわりのない限り昭和四九年である)の青葉寮における宿直者は乙野と乙原であった。

2  三月一七日、宿直勤務であった沢崎は、園児の夕食時間であるのに、青葉寮収容児童のY子(昭和三七年二月二八日生、当時一二歳)が食堂に姿を見せず、その居場所も分からなかったことから、相勤者の乙谷にその旨を告げ、乙谷は園児らとともに学園の内外を捜したがY子を発見できず、帰宅していた副園長乙海三夫に連絡した。その後、同人や非常招集を受けて登園してきた職員のほか、学園からの通報で出勤してきた警察官らが翌一八日午前一時ころまで学園の内外を捜索したものの、Y子を発見するには至らなかった。

三月一八日も朝早くから職員らが園の内外を捜索したがY子の所在は確認できず、午後五時ころ捜索活動をいったん中断したうえ、Y子の捜索ビラを作り、男子職員が夜半までビラ配りなどをして捜索活動を続けた。

3  三月一九日は、Y子の捜索ビラを一般市民にも配布して協力を要請することとし、管理棟事務室で捜索ビラの印刷やY子の顔写真入りの立て看板の製作等がなされ、職員らはビラ配りに出向いたりしたが、学園をあげての捜索活動が行われたにもかかわらず、Y子発見につながる情報が得られないまま経過していた。

同日夜、青葉寮の園児らは、テレビを見るため、その大部分がディルームに集まってテレビを見ており、テレビを見ない園児は居室で遊んだり、就寝していた。同日午後八時すぎころ、宿直勤務の乙野は、居室にいるはずの同寮収容児童X(昭和三六年九月二三日生、当時一二歳)の姿が見あたらなかったことから、相勤者の乙原とともに同寮内の居室等を捜したが、Xを発見できず、当時在園していた職員にも連絡し、園内全体にわたる捜索が行われ、同日午後八時五六分ころ、学園から西宮警察署(以下「西宮署」という)に一一〇番通報がなされた。

そして、同日午後九時三〇分ころ、職員により、同寮北側裏の浄化槽の中から両名の死体が発見され、同日午後一一時すぎころ、Y子、Xの死体が右浄化槽から相次いで引き上げられた。

四  本件訴訟の経緯

1  前記のとおり、三月一七日、Y子が行方不明になり、警察官、職員らによる捜索が行われていたが、その二日後の三月一九日、Xが行方不明になり、同日午後九時三〇分ころ、浄化槽の中から両名の死体が発見された。

2  兵庫県警察本部(以下「県警本部」という)は、翌三月二〇日西宮署に捜査本部を置いて捜査を開始し、その結果、四月七日甲山学園の保母である沢崎をX殺害の被疑事実で逮捕した。

3  神戸地方検察庁尼崎支部は、勾留期間の満了する四月二八日、処分保留のまま沢崎の身柄を釈放したが、捜査は継続して行っていた。

4  沢崎の釈放後の七月三〇日、沢崎と乙谷及び青葉寮指導員乙島五男が、沢崎を逮捕、勾留して捜査したことが違法であり肉体的、精神的な苦痛をこうむったなどとして国及び兵庫県を被告として国家賠償請求訴訟を神戸地方裁判所尼崎支部に提起し(以下「国賠訴訟」という)、右訴訟は一一月二二日を第一回口頭弁論期日として審理が始まった。

5  神戸地方検察庁尼崎支部は、昭和五〇年九月二三日、前記被疑事実を合理的な疑いを容れない程度までに証明しうると認むべき証拠は乏しいとして、沢崎を嫌疑不十分を理由とする不起訴処分に付した(おおむねこれまでの捜査を「第一次捜査」という)。

6  その後、神戸検察審査会は、Xの両親の申立てを契機に昭和五〇年一〇月職権により立件したうえ、右不起訴処分の当否について審査を遂げ、昭和五一年一〇月二八日右不起訴処分は不当であるとの議決を行い、同年一二月一〇日に議決書の送付を受けた神戸地方検察庁は、再捜査を開始(尼崎支部で再起、本庁に移送)した。

7  この間、右国賠訴訟において、被告人が昭和五〇年一二月一九日(第八回口頭弁論期日)、昭和五一年一月一六日(第九回口頭弁論期日)及び同年二月二〇日(第一〇回口頭弁論期日)に、若葉寮指導員であった戊田花子(以下「戊田」という)が同年一〇月一五日(第一五回口頭弁論期日)及び同年一一月一九日(第一六回口頭弁論期日)に、それぞれ証人として、宣誓のうえ証言した。

8  神戸地方検察庁は、右捜査の結果、昭和五三年二月二七日沢崎をX殺害の被疑事実で再逮捕すると同時に、被告人及び戊田を右国賠訴訟における偽証の被疑事実でそれぞれ逮捕し、同年三月九日沢崎を殺人罪で、同月一九日被告人及び戊田を各偽証罪で神戸地方裁判所に起訴した(第一次捜査後おおむねこれまでの捜査を「第二次捜査」という)。

9  そして、右殺人事件については、昭和六〇年一〇月一七日神戸地方裁判所で無罪の判決が言い渡され、検察官の控訴申立てにより大阪高等裁判所で審理され、平成二年三月二三日「原判決を破棄する。本件を神戸地方裁判所に差し戻す」との判決が言い渡され、沢崎及び弁護人の各上告申立てにより最高裁判所で審理され、平成四年四月七日上告棄却決定がなされ、右控訴審判決が確定した。

また、右各偽証事件については、昭和六二年一一月一七日神戸地方裁判所でいずれも無罪の判決が言い渡され、検察官の控訴申立てにより大阪高等裁判所で審理され、平成五年一月二二日「原判決を破棄する。本件を神戸地方裁判所に差し戻す」との判決が言い渡され、右控訴審判決は確定した。本件は、右偽証事件のうち被告人に関する差戻し審である。

第三  控訴審判決の拘束力について

本件控訴審判決は、破棄の理由として刑訴法三八二条(事実誤認)をあげており、検察官は、「丙林証言の信用性について、控訴審判決が、その証言の信用性は高いというべきである旨判示して原審の判断を否定していることが明らかであって、この判断が拘束力を生じることになる」旨主張しているので、当審としては、事実誤認に関して控訴審の判断にどういう点において拘束されるのかをまず検討しておく必要がある。

ところで、本件控訴審判決は、<1>「原判決が乙谷の手帳及び供述の信用性に疑いありということで結論的に証拠価値を否定した点には疑問が残る」、<2>「丙林証言の信用性は高く、原判決がその信用性に疑いを持たざるを得ない難点としてあげる点は、いずれも丙林証言の全体的な信用性に影響を与える事情とまでは言い難く、同証言の全体的な信用性の判断を誤った疑いが強い」、<3>「被告人が乙谷のアリバイ工作に同調していたとはいえないとの原判決の結論には多大の疑問がある」、<4>「被告人の自白調書の信用性を否定した原判決の判断には多大の疑問がある」旨判示しているのであるが、同時に、前記各判断に基づき、それぞれ事実調べを尽くす必要がある旨をも判示し、結論として、「以上の次第であるから、原判決は、被告人の国賠証言につき、客観的虚偽性及び主観的虚偽性、偽証の犯意のいずれの点についても、取調べ済み証拠の評価を誤った疑いが強く、かつ、取り調べるべき証拠を取り調べなかったという審理不尽が直接または間接に介在しており、これらが重なった結果、各公訴事実の立証が不十分である旨事実を誤認するに至ったものというべきである」旨判示している。

破棄判決の拘束力は、「破棄の直接の理由たる原判決に対する消極的、否定的判断について生ずる」ものであり、その判断を裏付ける積極的、肯定的判断については生じないと解すべきである。また、以上のように、本件控訴審判決は、「原判決が証拠の評価を誤った疑いが強い」との判断とともに、「取り調べるべき証拠を取り調べなかったという審理不尽が直接または間接に介在しており、それが重なった結果として事実を誤認するに至った」との判断をしているのであり、右控訴審判決の審理不尽の判断に基づいて各種の証拠調べを行った当審においては、もはや控訴審判決時とは事実判断の資料を異にするに至っているというべきであるから、右控訴審の判断には拘束されないといわざるを得ない。

したがって、検察官は、「丙林証言の信用性は高いというべきである旨の控訴審の判断は、破棄の直接の理由たる判断として拘束力が生じる」旨主張するが、このような積極的、肯定的判断に拘束力が及ぶと解することはできないうえ、右丙林証言の信用性については、控訴審判決が「丙林電話当時同室していた戊野五郎や保安係員戊橋六男の証人尋問を受けることにより、丙林証言の信用性につき外部的な裏付けがあるか否かを検討することが可能である」旨の判示をしており、戊野五郎ら関係証人の取調べをした当審においては、前記判断に照らしても、検察官の右主張はとることができない。

第四  判断の手法について

検察官は、本件公訴事実について、まず、証言事項に対応する事実関係に関して本件で取り調べられた各証拠によって真実と思われる客観的な事実を明らかにしたうえ、これら検察官が客観的真実だとしている事実と国賠訴訟での証言との食い違いを指摘し、次に、その食い違いの程度、内容、証言に至るまでの被告人の言動等間接事実を総合して被告人の主観的事情(証言と記憶内容との齟齬、偽証の犯意等)を導き出して推認するという手法をとっている。そこで、以下、右証拠判断の手法に従って順次判断する。

第五  検察官が偽証であると主張する被告人の証言内容及びその前提事実について

一  ほぼ争いなく認められる前提事実

本件で検察官において被告人が虚偽の証言をしたと主張する事項は、一つは電話の順序であり、もう一つは電話の際に聞かれた時刻に関するものである。

そこで、まず、その前提となる事実について、関係各証拠によりほぼ争いなく認められる事実を認定しておく。それは、以下のとおりである。

1  被告人は、三月一九日午後五時ころ甲山学園に帰って管理棟事務室に行き、在室していた副園長乙海三夫らと一緒になったが、乙海らが午後七時過ぎころ(以下において時刻のみで記載したものについてはことわりのない限り昭和四九年三月一九日である)には帰宅したため、以後は一人で同事務室にいた。

2  戊田は、午後六時ころまで国鉄西宮駅でのビラ配りに従事し、午後七時前ころ一人で甲山学園に帰り、若葉寮職員室で乙谷の帰園を待ち、その後帰園した乙谷及び沢崎を正門付近まで出迎え、乙谷らと一緒に管理棟事務室に入った。

3  管理棟事務室において、乙谷が、その場にいた被告人に当日のY子捜索活動の状況等を報告したり、沢崎が夜食用として買ってきたパンなどを出して皆で食べるなどした。

4  乙谷らが管理棟事務室に入ってから被告人が同事務室を出るまでの間に、同事務室内で学園の外部との電話のやりとりがあったが、それは、青葉寮収容児童であるBの父親丁原太郎がBの様子を心配してかけてきたもの(以下「B電話」という)、沢崎が丙谷松子にかけたもの(以下「丙谷電話」という)、沢崎が丁沢六江にかけたもの(以下「丁沢電話」という)、乙谷が大阪放送にかけたもの(以下「丁岡電話」という)、ボランティア団体「お誕生日ありがとう運動」(以下「ありがとう運動」という)の会員である丙林七江(以下「丙林」という)からかかってきたもの(以下「丙林電話」という)である。

5  丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話については、沢崎が、ラジオ大阪にY子捜索の協力を依頼してラジオで放送してもらうことを提案し、まず、ラジオ大阪に勤務する丁沢七男(一雄と改名。以下「丁沢七男」という)の妻丁沢六江(二子と改名。以下「丁沢六江」という)が沢崎と同じ先生のもとで華道を習っていたことから、丁沢方の電話番号を聞くために華道師匠である丙谷松子(以下「丙谷」という)方に電話をかけ(これが丙谷電話)、次に、丙谷から教えてもらった番号で沢崎が丁沢方に電話をし、その電話で沢崎から電話を引き継いだ乙谷が、大阪放送の放送管理部部長事務取扱をしていた丁沢七男から五分位後に直接大阪放送に電話をするように言われ(これが丁沢電話)、そこで、乙谷が、右指示に従って大阪放送に電話をし、当直勤務であったラジオ大阪報道部の記者である丁岡十郎(以下「丁岡」という)にY子捜索の放送を依頼した(これが丁岡電話)という経過があり、この経過に照らすと、この三本の電話の順序は、丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話の順であったといえる。なお、丁沢七男は、丁沢電話の後、直ちに大阪放送に電話をして、丁岡に用件を伝えた。

6  丙林電話については、その電話で、乙谷が、以前から園児らの写真を撮影していた丙林に対してY子捜索に使用するY子の写真の焼き増しを依頼し、被告人が丙林にY子の写真を届けることになり、午後八時四五分に神戸新聞会館で待ち合わせることを決め、右電話終了後被告人が甲山学園を出ているので、4記載の電話のうちでは丙林電話が一番最後の電話である。

7  また、若葉寮指導員戊海八江(旧姓戊川。以下「戊川」という)は、若葉寮保母乙石九江(旧姓乙木。以下「乙木」という)との間で、外出先からY子捜索の進展状況を聞くため、午後八時に若葉寮職員室に電話をする約束をし、右電話については、甲山学園の回線はY子捜索の関係で使用することが多いと考え、通園施設で夜間は使用する人がいない北山学園の電話回線を使用することとした。そして、午後八時、若葉寮職員室において戊川からかかってきた電話を乙木がとり会話した(以下「戊川電話」という)。

二  検察官の主張する国賠訴訟における被告人の証言の核心部分

検察官が釈明において具体的に虚偽の証言であると主張している国賠訴訟における被告人の証言の核心部分は、次のとおりである。

1  電話の順序に関して

(昭和五一年一月一六日第九回口頭弁論期日)

問-電話の順番がいま証言なさったとおりのことがどうして言えるかということについてご説明していただけませんか。B君のお父さんからの電話あたりから。

答-学園の電話は先程から何遍も言いますようにボタン電話でして、甲山学園、甲寿園、北山学園、甲寿園に二つあるわけですけれども、四つの電話線が一つの電話機の中にはいっているわけです。そして、その電話機の置いてある場所で四つの電話とも呼出音が鳴るわけですね。それを見て、どの学園に電話がかかっているんかということで赤い電気がつきますから、自分の所の電話線にかかっているときだけ取るわけですけれども、その取るのも甲山学園には三台ありましてね、とにかく早く取った方が聞くということにいきおいなるもんですからね、随分、何度も呼出音があり、そして、だれかが取っているということですけれども、私が事務所でとったものあるいは事務所の中でとった人のものしか記憶はないわけですけれども、それで、そのとったものの記憶のあるものの順番から言いますと、先程も言いました七時四五分と思われる頃にB君のお父さんからの電話があったと、これは一緒にいた乙谷君がとってますね。それから、その途中にまた呼出音が鳴ったりしていたと思いますけれども、今度は沢崎さんの方からお花の先生、そしてラジオ大阪の偉い人のおうちに電話をして、そして、やがて、乙谷君がラジオ大阪に五分後に電話した、これは記憶があります。目の前にありますから、それからもう一つは、そのあとで、とにかく出発する直前にお誕生日ありがとう運動の方から電話がかかってきた、そういう順番です。その間にあるいはあったかもしれませんけれども、記憶にないということですね。

2  時刻に関して

(昭和五一年一月一六日第九回口頭弁論期日)

問-大体の時間でよろしいんですが、園を出られたのは何時頃だというふうに思いますか。

答-それが八時一五分であったと思います。

問-それはどうして八時一五分だというふうにお思いになるわけですか。

答-当初から八時一五分という、その時間の記憶は鮮明にあったんです。ただ、どの場所で八時一五分であったのかという印象がもうひとつなかったもんですから、大変、うろうろしたわけですけれども、乙谷君が私の時計を見てやり方と時間を決めたということがあるわけですね、その時が八時一五分であったということなんですけれども、そこの記憶がもっと明確であれば、当初からそういう証言したんですけれども、かなりいろんな要素があって、あとでお話しさせていただきますけれども、動かされましてね、できなかったんですけれども、ただ、六月九日と一一日に検察官の方と現場検証をしました時に、やはり、八時一五分であったということを鮮やかに思い出したと、そういうことです。

(中略)

問-それでもう一度ちょっとわかりにくいんですが、八時一五分だというふうに思われるのはどうしてですか。いまおっしゃったように乙谷さんが時計を持っていなかったと……

答-私に時間を聞いて、八時四五分という時間を約束したわけですね。その時、私が見ているわけです。

(昭和五一年二月二〇日第一〇回口頭弁論期日)

問-それでは、あなたの記憶としては、丙林さんから電話があったのは、それは何時頃になるんですか。

答-ですから、大阪放送、ラジオ大阪の電話のやりとりがあって、それから後に丙林さんの電話があったと記憶してますから、丙林さんの電話があってすぐに出発したと思っておりますから、八時、そうですね、八時四五分という約束をしているわけでしょう。ですから、八時一五分と思っておりますけれども。

問-じゃあ、丙林さんから電話があったので八時一五分であったという、記憶ではそうなると、こういうことなんですね。

答-私の記憶ではそうです。

第六  電話の順序に関して検察官が主張する客観的事実及びそれに対する判断

一  検察官の主張

電話の順序に関して、検察官が、客観的事実であるとして主張する事実は、「丙林電話までの、管理棟事務室内における電話順序は、丙谷電話、丁沢電話、B電話、丁岡電話である」ということであり、それを裏付ける客観的事実として、「右各電話は、いずれも午後七時三〇分ころ以降、午後七時五〇分ころまでの電話であること」、「丁岡電話は午後七時四〇分台の電話であること」、「B電話は、午後七時四〇分ころから数分間の電話であること」、「B電話と丁岡電話が重なっていること」を主張する。

そこで、以下、検察官が主張する事実が証拠上認められるのか検討する。

二  乙谷らが帰園した時刻について

1  検察官の主張

検察官は、前記各電話はいずれも午後七時三〇分ころ以降の電話である旨主張し、その根拠として乙谷らの帰園時刻をあげ、「乙谷及び沢崎が帰園したのは、午後七時三〇分ころであり、より正確には午後七時二五分を中心とした時間帯の可能性が高い」旨主張する。

2  乙谷、沢崎、戊田及び被告人の供述

乙谷及び沢崎の帰園時刻について、乙谷、沢崎、戊田は、いずれも午後七時三〇分ころである旨供述(なお、以下においては、広義の供述証拠〔これを「供述」ともいう〕中、当裁判所が直接聞いたものと否とを問わず、証言として供述されたものは「証言」、その他の供述ないし供述記載は「供述」という)し、被告人も、乙谷らが管理棟事務室に入ってきたのは午後七時三〇分ころである旨供述している。

ただ、乙谷、沢崎、被告人については、いずれも時計等で確認した時刻ではなく、いわば感覚的なものにすぎず、正確な時刻として供述しているものとはいえない。

戊田については、検察官主張のように、乙谷と待ち合わせをしていたのに一人で早く帰ってきたため乙谷が甲山学園に帰るのを待っていたという事情があり、乙谷らが帰園した際に時計を見たと思う旨の戊田の公判供述にも照らすと、戊田の時刻の認識については他の者とは異なりより正確なものと一応いうことができる。しかしながら、戊田の時刻に関する供述を子細にみると、当初の三月には「午後七時三〇分ころ」と供述(49・3・25捜復検五一四など)していたのが、四月二日には「午後七時二〇分ぐらいから七時二五分くらい」(49・4・2員面検三二一)と供述がかわり、四月中には「午後七時二五分ころ」と供述(49・4・20員面検三二二など)するなど、必ずしも一定していないこと、その時刻についてはいずれも具体的な根拠をあげて供述をしているものではなく、供述がかわった49・4・2員面では自己の帰園時刻を基準にして供述しているが、その際に戊田が作成した行動概要メモ(49・9・6捜復検五一六添付分)には「一五分ないし二〇分後」というのを「一〇分ないし一五分後」と訂正しているだけでその理由の記載はなく、しかも、右四月中の供述についても「はっきりしない」とか「と思う」というものであること、時計を見たと供述したのは国賠訴訟での証言と公判供述であるが、いずれも「時計を見たと思う」というにすぎず、それも「針が下の方を向いていたということ」というものであることに照らすと、結局、戊田についても、その時刻については正確な認識、記憶があるということはできないものである。

3  丁川八男及び丁川三子の証言

なお、弁護人は、丁川八男の「午後七時二五分ころに乙谷、沢崎と阪急西宮北口駅で別れた」との証言が信用でき、阪急西宮北口駅から甲山学園まで車での所要時間を一五分ないし二〇分間とみると、乙谷らの帰園時刻は午後七時四〇分ないし四五分ころとなる旨主張し、乙谷及び沢崎と共にY子捜索のビラ配りをして阪急西宮北口駅で乙谷らと別れた丁川八男は、別れたそのころ自分の腕時計を見たとき午後七時二五分であったことを証言(丁川八男証言)し、一緒にいた丁川三子(旧姓「丙原」)も、その後丁川八男からその旨を聞いたことを証言(三子証言)する。

そして、阪急西宮北口駅から甲山学園までは直線距離では約四キロメートルであるが、乙谷及び沢崎の供述によれば、本来乙谷は戊田と国鉄西宮駅で落ち合って帰園する予定であったため、乙谷と沢崎は戊田が国鉄西宮駅にいるかもしれないということで同駅に立ち寄ったこと、沢崎は、国鉄西宮駅では車から降りて駅員に断って改札口の中まで入った旨供述(沢崎の49・4・13員面検二六二、49・4・27検面検二八一)している(さらには阪神西宮駅にも行った旨公判廷で供述している)ことが認められるのであり、これらを総合すれば、乙谷らが、阪急西宮北口駅で午後七時二五分に右丁川らと別れたとすれば、帰園時刻は午後七時三〇分を大きく過ぎるものと推測できる。

しかしながら、右にみたように、乙谷ら全員が、正確な時刻を特定できないとはいうものの、当初から帰園時刻を午後七時三〇分ころと一致して供述していること、丁川八男及び三子の供述を総合すれば、新聞記事に犯行時刻が午後七時三〇分ころと出ていたことから、右三子においてその時刻ころまでに沢崎が帰園できるのかという観点から乙谷らと別れた時刻を右八男に確認したという経緯があること、丁川八男は、腕時計を見た理由は覚えておらず、何となく見たと供述しているのであり、右三子との会話の影響が否定できないことに照らすと、右丁川八男の乙谷らと別れたころ自分の腕時計を見て午後七時二五分であったという証言には直ちに信用しがたいものがあるといわざるを得ない。

4  小括

したがって、これらを総合していえることは、乙谷らの帰園時刻については、午後七時三〇分ころであると認めることはできるものの、それ以上に時刻を特定できるものではなく、検察官主張のように「より正確には午後七時二五分を中心とした時間帯の可能性が高い」とまでいうことはできない。

三  丙谷電話、丁沢電話の時刻について

1  丙谷電話について

(一) 検察官の主張

検察官は、「丙谷電話の相手方である丙谷松子の供述及び証言からは、丙谷電話の時刻は午後七時三〇分ころ以降午後八時ころまでの間としか特定はできない」旨主張する。

(二) 丙谷電話と丙谷の昭和五二年当時の供述

右検察官の主張を裏付けるものは、丙谷証言と第二次捜査段階である昭和五二年当時の丙谷の供述調書である。すなわち、丙谷は、丙谷証言では、沢崎から一回目にあった電話の時間的関係及びその前後の自己の行動等について覚えていない旨証言しており、事件当夜の沢崎からの電話の具体的状況についての記憶を失っている状態にあるため、丙谷証言からは、丙谷電話の時刻を特定することはできない。

そして、第二次捜査段階である昭和五二年当時の丙谷の供述調書をみると、丙谷は、丙谷電話が夕食後にあったことは供述しているが、丙谷電話の際時計を見るなどして時刻を確認していないのであり、正確な時刻を特定することはできず、結局は、「午後八時より前であったことに違いはないが、午後七時三〇分過ぎから午後八時前の間であるとしか言えない」(52・11・11検面当審弁一五)というのである。

(三) 丙谷の昭和四九年当時の供述と昭和五二年におけるその訂正

しかしながら、丙谷は、昭和四九年当時において、丙谷電話の時刻が夕食が終了した午後七時五〇分以降で午後八時前である趣旨の供述(49・8・29検面当審弁一〇二)をしていたのであり、それを、昭和五二年に至って、「電話時刻については、当時はっきりした記憶がなかったため間違ったことを述べていると思う」(52・2・9員面当審弁一三)として、右昭和四九年当時の自己の供述を訂正しているのである。そこで、丙谷の供述について以下検討する。

(1) 丙谷は、右のとおり、昭和五二年に至って昭和四九年当時の供述を訂正しているのであるが、その理由については、<1>「夕食終了時刻について午後七時四〇分とか午後七時五〇分とか述べているが、これは具体的な記憶があってのことではなく、通常の状況を尋ねられた結果を述べたものである」旨供述(52・11・11検面当審弁一七)し、また、<2>「時刻について丁沢ともいろいろ話しあって思い出そうと努力したが、この時、丁沢が沢崎から電話がかかってきたのは午後八時を過ぎていたと思うと言われるので、それなら私方へかかってきたのは午後八時に間近のころになると思い込んだ危険がある」旨供述(52・2・9員面)している。

(2) 右<1>の理由について検討する。

ア 検察官は、右49・8・29検面について「丙谷電話があるまでの時間経過については、一般的な夕食時における習慣をまじえて述べていることが明らかである」旨主張し、同検面をみると、「いつも午後七時二〇分ころには食事を始められるように用意してきている。この日は主人もおそくはならなかったし、いつものように午後七時二〇分ころから家族四人で夕食を始めた」、「夕食は、いつも三〇分くらいはかかる状態であり、この日も同様だったから、午後七時五〇分ころまではかかったと覚えている」との記載があり、丙谷が、丙谷方の通常の夕食状況からこれらの時刻を推定している面があることは否定できない。

しかしながら、右49・8・29検面の内容は、夫が夕食後すぐに書斎に引き上げたことや、夕食後沢崎からの電話があったこと。その際の沢崎の話し方、電話を切ってからの丙谷の行動などを具体的に供述しているのであり、通常の夕食状況からの推測という面はあるものの、当日の具体的状況に基づいて供述しているものというべきである。

イ 検察官は、事件当夜、丙谷の夫は夕食後直ちに仕事を始めなければならないほど仕事が忙しい状態であったから、いつもより早めに食事を始めた可能性や夕食終了時刻が通常より早くなっていた可能性がある旨主張し、「49・8・29検面は、事件当夜における具体的な夕食開始及び終了時刻について明確な記憶のない丙谷が、日常の一般的な夕食開始、終了時刻と同様であったであろうとして供述した内容を、取調官が、普段とは異なり、丙谷の夫が仕事で忙しい日であったという特殊な状況との関連について十分聴取しないままに作成されたものと思われ、その信用性には疑問がある」旨主張し、昭和五二年当時の供述調書については、「一般的な夕食開始時刻や夕食時間に、さらに当時夫が仕事を家庭内でも行っており、忙しくしていたという事情をも加味して、事件当夜の夕食終了時刻が通常より早くなっていた可能性が存している旨供述しているのであり、その内容は極めて自然である」旨主張するが、前記のとおり、丙谷は、49・8・29検面において、夫が夕食後すぐに書斎に引き上げたことを供述しているのであって、夫が忙しい状態にあったことを踏まえ、通常の夕食状況を加味して供述しているというべきであり、三年後になって、右理由をもって夕食時間を変更することはむしろ不自然といわざるを得ない。

ウ また、丙谷は、49・8・29検面において、「電話を切ってすぐ食堂に戻り、長女に沢崎の電話の話をし、放送はできるだろうと思い、夕刊を取り出し、ラジオ大阪の番組を見たところ、午後八時からディスクジョッキー式の歌番組があるのを見て、スポットニュースとして流されるのではないかと思い、すぐラジオを出してダイヤルを合わせ長女としゃべり始めた。スイッチを入れた時、八時からの番組は始まっておらず、間もなくして始まったと覚えている」旨、ラジオ放送を聞いたという具体的な状況から丙谷電話の終了時刻が午後八時の少し前であった趣旨の供述をしている。

この点について、検察官は、「右供述は、夕食終了時刻が午後七時五〇分ころであるという推論と、その後沢崎からの電話があり、電話終了後ラジオをつけたところいまだ午後八時になっていなかったとの記憶から、丙谷電話が午後八時前であるはずとの気持ちからなされた供述である可能性が強く、その前提である夕食終了時刻がずれた場合には、当然、右供述部分の信用性、正確性についても疑問が生じるものである」旨主張する。

しかしながら、右供述は、電話後の自己の行動をラジオ放送を聞くという具体的な行動に即して供述しているものであり、検察官主張のような「推論と可能性」からの非難は当たらないといわざるを得ない。

また、検察官は、「食事後夕刊をゆっくり時間をかけて読むという丙谷の一般的な習慣に照らせば、夕食終了直後に沢崎からの電話に出て対応し、右電話後にいつものように新聞を時間をかけて読み、午後八時からの番組でニュースが流れれば聞こうと考え、午後八時前にラジオをつけたということは十分に考えられる」旨主張するが、右検面の記載からは、夕刊を見たのはラジオをつけるためであっていつものように夕刊を読むためではないことは明らかであり、結局、右主張は、検察官の単なる推測にすぎず、理由がないといわざるを得ない。

エ なお、検察官は、「丙谷電話の時刻に関する丙谷の記憶が昭和四九年五月当時において明確なものでなかったことは、丙谷が、『沢崎の釈放後、上野弁護士と沢崎がやってきて主人と共に会っている。上野弁護士や沢崎から、電話についての質問がいろいろ出され、私や主人が思いつくままに答えていた。一回目の電話が八時よりどれくらい前にかかってきたかという記憶はあいまいだったので、そのような記憶を素直に話したと思う』と52・11・11検面において供述していることからもうかがえる」旨主張するが、右検面の供述内容を裏付ける証拠はない。

オ 以上みてきたように、右<1>については供述を訂正した理由として納得のいくものではないといわざるを得ない

(3) 右<2>の理由について検討する。

確かに、丁沢六江が、「警察の事情聴取があった後と思うが、丙谷と会って、電話の時刻のことについて、お互い記憶にないわねという話題が出たことは覚えている」旨証言(丁沢六江証言)していることや、昭和四九年四月当時、丁沢六江及び七男が、捜査官の事情聴取に対して、丁沢電話が午後八時過ぎにあったと思われる旨の供述をしていたことは認められるが、右丁沢六江証言は、お互いに記憶がないという話題が出たというにすぎないものであり、具体的に午後八時とかの時刻の話ではないのであって、右49・8・29検面の内容が、前記のとおり具体的なものであることに照らすと、右<2>の理由でもって供述の訂正を説明することはできないといわざるを得ない。

(4) 以上検討したように、丙谷は、丙谷電話の時刻が午後七時五〇分ころから午後八時ころまでの間であったとする49・8・29検面の供述を、その後訂正しているのであるが、右訂正については、その理由が納得のいくものではなくその裏付けも不十分であるところから、そのまま信用することはできないのであり、右検面の供述の信用性を否定するものではない。

(四) まとめ

以上を総合すると、丙谷電話の時刻については、検察官主張のような「午後七時三〇分ころ以降午後八時ころまでの間としか特定できない」というものではなく、正確な時刻を特定することはできないものの、午後七時五〇分ころから午後八時ころまでの間であった可能性を否定できないといわざるを得ない。

2  丁沢電話について

(一) 検察官の主張

検察官は、「丁沢電話の相手方である丁沢六江及び丁沢七男の供述及び証言からは、丁沢電話の時刻は午後七時三〇分ころ以降午後八時三〇分ころまでの間の可能性が大きいという以上の特定はなし得ない」旨主張する。

(二) 丁沢六江証言と丁沢七男証言

丁沢六江は、「もうその日のことは覚えていないが、沢崎からの電話があった時、夕食は終わっていたような記憶がある」旨証言(丁沢六江証言)し、また、丁沢七男も、「沢崎からの電話が夕食後であったことは間違いなく、夕食後もほっとしたころかと思う」旨証言(丁沢七男証言)するが、いずれも、それ以上に具体的な時刻について特定するに足りる証言はしていない。

したがって、丁沢六江及び丁沢七男の各証言からは、丁沢電話が丁沢方の夕食後であったことはいえるものの、当日の夕食が何時に終わったのか不明であり、結局、丁沢電話の時刻について特定することができないといわざるを得ない。

(三) 丁沢六江の49・6・17検面の供述とその信用性

そこで次に、捜査段階の供述をみると、丁沢六江は、49・6・17検面(当審弁一〇三)において、丁沢電話の時刻について、「午後八時過ぎと思う」旨の供述をし、その理由について、「電話が鳴った時、長野の私ら夫婦の実家から電話がかかったのかと思った。実家からの電話は、夜間割引を利用して普通午後八時以降にかかって来るが、この時は実家からの電話にしては今日は早いなという感じがした。午後八時三〇分になっていればこのような感じは受けないので、その電話は午後八時一〇分か一五分より後であることはまずないと思う。このような事情から、電話は午後八時ころから午後八時一〇分か一五分ころまでの間だといえる。子供が出ようとしたのを押さえて自分が出たので実家からだろうと思ったのは間違いない」旨供述している。

右供述内容は、「長野の実家からかかったのかと思った」、「今日は早いなという感じを受けた」と丁沢六江の心理状態をまじえてのものであり、しかも、「子供が出ようとしたのを押さえて自分が出た」という行動をまじえてのものであって、その内容は具体的で信用性に富むものといえる。

また、右検面では、「この日は午後八時少し前にテレビを消したと思う。その後、家族四人で居間にいた間に電話のベルが鳴った」旨、具体的にテレビを消したことに関連付けて丁沢電話の時刻に関する供述をしている。この点については、検察官が主張するように、どのようなテレビの番組であったのか、何時から何時まで子供にテレビを見せたのかなどについて、具体的に供述できないこと、丁沢六江証言では、「遅くても午後八時少し前までにテレビを消すのが当時の習慣だったように覚えている。子供にはテレビを見る時間を夕食後三〇分としていたが、二人いるので同じものを見れば三〇分で済むこともあり、異なれば一時間であり、ケースバイケースである」旨証言していることから、確実に証拠にはなり得ないものの、通常であれば、午後七時から午後八時までテレビをつけていたという習慣からの供述であり、一概に否定できないものである。

(四) 右供述を訂正する丁沢六江証言と同人の昭和五二年当時の供述

ところが、丁沢六江は、同証言において、沢崎の電話を長野の実家からの電話と思った旨当時捜査官に述べた事実並びに実家の母及び義母からの電話が午後八時ころから午後八時三〇分ころまでにかかってくることが習慣的であった事実を証言したうえ、「沢崎からの電話が鳴った時、信州の実家からの電話かなと思ったことは記憶している。しかし、その当時自分の実家からは母のほか兄が亡父の遺産相続の手続の件で、結構電話をかけてきており、兄の場合は、午後七時三〇分ころから午後八時ころまでにかかってくることが多かったのではないかと思う。沢崎の電話が鳴った時は、実家の誰からの電話とまで思ったのではなく、信州の松本からと思っただけだと思う。警察官に対しては、兄が当時電話をしてきていたことを話さなかったが、その理由は、兄からの電話内容が遺産の問題であって、プライバシーにかかわることであり、夫にも遺産の問題については詳しい話をしておらず、それで言いたくなかったからである。その後、兄から電話がかかってきていたことを警察の人などに話したのは、警察の人達から、他に電話がかかってくるようなことはなかったかとの質問を受け、それで兄から電話があったことも話したのである。当初の事情聴取では、そこまで聞かれていなかった」旨述べて、右49・6・17検面の供述内容が間違いである旨証言し、昭和五二年当時の丁沢六江の供述調書(当審弁二一ないし二七)でも同趣旨の供述をしているのである。

右証言及び供述は、具体的な事実をあげて自己の供述を間違いであった旨訂正しているのであり、その内容も、自己の親族のそれも遺産相続のことであり言いたくなかったとの理由であって一応首肯できるものであり、しかも、この供述内容については、丁沢七男の「妻は最初は、義母からの電話と思って出たようなことを述べていた。それで、自分も、その妻の話が起点にあって、その電話が午後八時過ぎぐらいかなという形で頭での組立をしてしまったように思う。しかし、妻は、後日、実家の兄からの電話と思ったかもしれないとのことを言い始め、また、そのことを警察などに話したという報告をしてきたことがあり、それで話がややこしくなると思い、叱ったことがある。妻がその兄と遺産相続のことで電話でやり取りしているのを、自分自身は何回も聞いているわけではないが、遺産相続のことで妻にアドバイスしたこともあるし、はんこの押印手続などで介在したこともある。妻が遺産関係で妻の兄から電話がかかってきていたという時期について調べたところ、ちょうど時期的に沢崎からの電話のあったそのころであった。妻の兄から妻へ電話がかかる時間帯については、妻の兄が午後五時ころに商売を終え、酒を飲んでほどほどに酒が回ったころで割と早い時間帯ではないかと自分は思う」旨の証言から、本件事件当時ころに、丁沢七男及び丁沢六江の実家の母親だけではなく、丁沢六江の実家の兄から電話がかかってきていたこと、その電話は実家の母親からの電話の時間帯よりも早い時間帯であると丁沢六江が記憶していたことが一応裏付けられているといえる。

(五) 右訂正理由の供述の信用性に対する疑問

しかしながら、右訂正の理由、供述内容を子細にみると、次のような疑問点が指摘できるのであり、右訂正が事件後三年も経過してからのことであることを考えると、その信用性には疑問があるといわざるを得ない。

すなわち、供述調書の記載内容から右訂正に至った経緯をみると、52・2・6員面(当審弁二一)では「最初に警察から尋ねられたときから確かな記憶がなかった。丁沢電話の時刻は、午後七時三〇分を少し過ぎたころではないかという気もする」とまず時刻自体が早まり、52・4・1検面(当審弁二二)では「実家からの電話ではないかと直感したことは間違いないが、実家の兄からの電話ではないかと感じたのかもしれない」と当時抱いた感じについてもあいまいになり、52・4・3員面(当審弁二三)では「当時私の実家の兄から遺産相続の件で比較的頻繁に電話がかかってきていた。故郷からの電話であると思ったことは間違いないが、主人の実家からという気持ちだけではなく、私の実家からという気持ちも十分働いていたはず」として、「警察や検察庁に対して遺産相続というややこしいプライベートなことはあまり話したくなかったので言わなかった」旨供述し、52・4・27検面(当審弁二五)では、「電話が鳴ったとき兄からの電話ではないかと直感した」と供述するに至っている(52・11・11員面当審弁二六では「兄からの電話かなと思って電話に出たのではないかと思う」と供述している)。このような変遷の過程をみると、兄からの電話について話したくなかったことで説明することには疑問があり、むしろ以前話した時刻を午後七時三〇分ころに近づけることができないかという観点からの追及を受け、丁沢六江自身、52・2・6員面にあるように、「警察から再三はっきりした時刻を思い出せないか念を押され、確かでない記憶を呼び起こして整理するのにすっかり困ってしまい」、その中で、当時遺産相続の関係で兄から電話がかかってきていたことから、それをもとに午後七時三〇分過ぎという時間で説明するに至ったものという可能性が否定できないのである。

また、丁沢六江は、「警察や検察庁に対して遺産相続というややこしいプライベートなことはあまり話したくなかったので言わなかった」旨供述するが、遺産分割の話といっても、すべて兄に委せていたというのであるから、そのことに関して丁沢六江と兄との間で争いがあったわけではなく、ことから警察に兄の電話のことを隠すような事情があるとは思われない。「プライベートなことを言いたくなかった」とすれば、単に兄から電話があったことを話さないことで足りるのであり、ことさら、長野の実家からの電話と思ったからとか、今日は早いなと感じたとか、子供を押えて私が電話口に出たとか、いわば虚偽の事実を付け加えて供述することはないと思われる。

なお、丁沢七男については、丁沢六江の話に基づいて自己の行動や感覚を構成して供述したことがうかがわれるものであり、独立しての証拠あるいは丁沢六江証言の補強にはならないといわざるを得ない。

(六) まとめ

以上を総合すると、丁沢電話の時刻については、検察官の主張のような「午後七時三〇分ころ以降午後八時三〇分ころまでの間の可能性が大きいという以上の特定はなし得ない」というものではなく、正確な時刻を特定することはできないものの、午後八時ころである可能性が否定できないといわざるを得ない。

四  丁岡電話の時刻について

1  丁岡供述からの丁岡電話の時刻の特定

(一) 検察官の主張

検察官は、「丁岡電話の相手方である丁岡十郎の供述及び証言からは、丁岡電話時刻は午後九時五五分ころ以前であるという以上に特定はなし得ない」旨主張する。

(二) 丁岡証言の概要

丁岡は、丁岡証言において、「丁沢七男から電話があった後、数分して甲山学園から行方不明になった園児の放送を依頼する電話があったが、これらの電話の時刻については全く覚えていない。その後、午後九時五五分のニュースでその放送をしているので、それより以前であることは間違いないが、おおよそ何時ころかということも全く覚えていない」旨証言しており、同人の右証言からは、丁岡電話時刻を午後九時五五分ころ以前であるという以上に特定することはできない。

(三) 丁岡の捜査段階の供述とその信用性

そこで、丁岡の捜査段階の供述をみると、丁岡は、49・6・20検面(当審弁一〇一)において、「丁沢七男からの電話は、午後八時ころということはまずありえないが、午後八時一五分前後ころと丁沢が言っておれば、それが正しいかもしれない」旨供述している。

検討するに、丁岡は、右検面において、「丁沢七男からの電話時間は感じでは二分間ぐらいだった。その電話後、何度か時計で時間を見たかもしれないが、何時であったかの記憶は全くない。それから間を置かずに甲山学園から電話があり、この電話はかなり長く、五、六分から一〇分ぐらいはかかった感じである。その後西宮署の電話番号を調べて同署に電話したが、その電話が終了するまで四、五分はかかったと思う。西宮署への電話後、間をおかずに原稿を作成した。作成に要した時間は二、三分と思う。書き上げたのが午後九時ころだったと思う。丁沢からの電話時刻について明確な記憶はなく、原稿を書き上げたのが午後九時ころだったという感じがするので、それから逆算していくと午後八時三〇分から午後九時までの間に丁沢から電話があったことになるが、右以上に根拠のある記憶ではない」旨も供述しているのであって、結局、丁岡の丁沢七男からの電話時刻についての時間感覚は不正確であり、そのことを丁岡自身も認めているのである。

そして、丁沢七男からの電話、丁岡電話、その後の西宮署への電話、その後の行動についての時間感覚から逆算して、丁沢七男からの電話の時刻を推測しているにすぎず、しかも、丁岡は、丁沢七男からの電話を午後八時半以降の電話であると推定しているのであって、右時間感覚の不正確さをうかがわせる。

これらを総合すれば、丁岡の供述はその信用性に乏しく、丁岡の右供述から丁岡電話の時刻を特定することはできないといわざるを得ない。

2  丁岡が西宮署にかけた電話からの丁岡電話の時刻の特定

(一) 検察官の主張

検察官は、「丁岡は、丁岡電話終了後、数分以内に西宮署に電話をしているところ、右電話は西宮署における検房終了の一、二分後の午後七時五〇分ころから午後七時五五分ころまでの間になされたと考えられる。そして、丁岡電話は数分間程度の電話であったと考えられるので、丁岡電話が午後七時四〇分台の電話であることは明らかであり、その開始時刻については、午後七時四〇分台の前半であった可能性が高いと考えられる」旨主張するので、以下、検討する。

(二) 証拠上ほぼ争いなく認められる事実

まず、証拠によれば、丁岡は、丁岡電話終了後、警察への園児行方不明の届け出の有無及びその内容を確認するため、西宮署の電話番号を調べたうえ同署に電話をかけたこと、西宮署では、宿直勤務であった吉崎勝久(警務係主任、以下「吉崎」という)が警務係の机上の一六番の電話機で右電話を受けたこと、吉崎は、行方不明園児の届け出の有無に関する問い合わせであったため、その担当と思われる防犯少年係の池上岩夫(以下「池上」という)に電話を替わり、池上が吉崎と替わって丁岡と話したことが認められる。

また、西宮署での平日の宿直勤務は午後五時一五分から翌朝午前九時までであり、当日の宿直は班長の鷲尾以下一六名が担当していたこと、西宮署においては、留置人の事故防止のため午後七時三〇分ころから留置場において検房が行われていたこと、検房は、原則として受付勤務員を除く宿直員全員で行っていたが、当日は、夕方に鷲尾の異動の内示が発令されたため、鷲尾も検房には参加しなかったこと、この宿直班では年二回の親睦旅行をしていたが、その旅行日が鷲尾の異動日と重なったため、旅行が実施できるかどうかの話し合いを公廨で行ったこと、午後八時五六分に甲山学園からのX行方不明の一一〇番通報の電話を刑事一課の切通馨(以下「切通」という)が受けたことが認められる。

(三) 吉崎証言及び池上証言の概要

検察官の主張の根拠となるのは、右丁岡からの電話を受けた吉崎の供述(吉崎証言)及び右吉崎と電話を替わった池上の供述(池上供述)である。

すなわち、吉崎証言によれば、「当日は、職員の人事異動の内示があり、人事担当であったため、当直主任の許可を得て、検房に出ずに公廨で人事記録の整理をしていた。その時に警務係の机上の一六番の電話機が鳴ったので、立って行って受話器を取ったところ、相手はラジオ大阪の人であり、甲山学園の子供が行方不明になったとの届け出が学園から出ているかどうかの問い合わせであったので、その担当である防犯少年係の池上に替わってもらった。電話機は、検房が終わってみんなが公廨の方にやって来る足音や話声がして、それが公廨の廊下の辺りで大きく聞こえ出したころに鳴ったように記憶している」というのであり、また、池上証言によれば、「当日夜の検房を終えて留置場を出て公廨の西出入口から公廨に入った。検房に行った勤務員の中では一番先に入ったと思う。ストーブの方に行こうと何歩か歩いたころと思うが、吉崎から『池上さん電話やで』と言われ、吉崎と交代して電話に出た」というのであって、右各証言が信用できれば、右丁岡が西宮署に電話をかけた時刻は、西宮署での検房が終了し職員が公廨内に戻って来る直前であったことになる。

そして、西宮署における三月一九日の検房の結果を記録した検房日誌(当審検二四六)には、当日の検房開始時刻が午後七時三〇分、検房終了時刻が午後七時五〇分との記載があるので、この記載が信用できれば、検房終了時刻は午後七時五〇分ころとなり、右電話の時刻は午後七時五〇分過ぎということになる。

(四) 吉崎証言及び池上証言等の信用性

そこで、以下、右吉崎及び池上証言等の信用性について検討する。

(1) 右各証拠等の適格性

そもそも、この点に関する証拠というのは、捜査本部が設けられていた西宮署内にある資料(検房日誌、連携日誌当審弁九六、職員願い届けカード当審弁七九など)と警察官の供述(吉崎証言、池上証言、縄手証言、切通証言)である。右各証拠はいずれも本件事件捜査とは直結しておらず、右資料は警察署内での日常の勤務に関して作成されたものであり、右供述も宿直勤務の際の出来事に関するものであるから、このような証拠自体をもって、弁護人がいうような「不公正、不当なものであり本来許されないものである」とは直ちにはいうことができないものの、そのような疑い、おそれがないかを慎重に検討すべきである。

(2) 丁岡電話に関する警察官からの事情聴取の経緯

この電話の関係で当審で証人調べをした吉崎証言、池上証言、縄手証言、切通証言及び各尋問経過並びに捜査状況等に照らすと、この電話の時刻に関する右警察官らの事情聴取の経緯は、右証拠からうかがわれる限りでは、おおむね次のようなものであったことが認められる。

すなわち、昭和四九年三月から四月にかけて、管理棟事務室内での電話に関して、各電話の有無、その時刻に関する捜査が行われ、その電話の相手方に対する事情聴取が行われたこと、その一つとして、丁岡から西宮署にかけられた電話に関して、昭和四九年四月二〇日ころ池上に対する事情聴取が行われ、49・4・20捜復(当審検一三一)が作成されたこと、その後、昭和五〇年になってから吉崎、池上に対してその時刻に関する詳細な事情聴取が行われ、供述調書が作成されたこと、昭和五二年になって、それ以外の宿直勤務者も含めた西宮署内での実況見分と関係者に対する本格的な事情聴取が行われ、供述調書が作成されたことが認められる。

(3) 右事情聴取の経緯等からみた吉崎証言、池上証言の信用性

吉崎、池上らが証言する出来事は、西宮署での勤務内容としては日常的なものであり、電話の時刻等を記録に残すのであればともかくそのような処置をしていない本件電話に関しては、記憶に残りにくい出来事であるということができる。

そして、右事情聴取の経緯をみると、池上に関しては、最初の事情聴取は事件から約一か月経ってからのものであるうえ、その内容も電話の時刻に関しては、切通からまた園児がいなくなった旨の連絡を受け直ちに甲山学園に向けて出発した時刻を基準にして、「正確なことは分からないが午後八時ころではなかったかと思う」というものであったのであり、その次に詳しく事情聴取をされたのは事件から約一年後で、本格的な事情聴取は事件から約三年後である。また、吉崎に関しては、最初の事情聴取(電話の時刻に関するもの)が行われたのは事件から約一年後で、本格的な事情聴取は事件から約三年後であり、切通、縄手孝吉(以下「縄手」という)に関しては、本格的な事情聴取は事件から約三年後である。右池上らは、電話の際の様子や、公廨内での出来事、旅行についての相談などにいて、ある程度具体的、詳細に証言しているのであるが、果たして、右池上らにそれだけの当日の記憶が残っていたのか疑問を感じざるを得ない。例えば、吉崎は「警察署でも検察庁でも聞かれ、事件のことを思い出す度に聞かれたことを思い出すので、割合はっきりした記憶をもっている」旨証言するのであるが、右のとおり、吉崎に対して電話の時刻に関する最初の事情聴取が行われたのは事件から約一年も経っているのであり、右証言のようにいうのはやや不正確であるうえ、電話がかかってきた際に証言のような足音や話し声が聞こえたことと関連させてずっと記憶にあったあるいは記憶を喚起したというのもいささか不自然といわざるを得ないのである。

しかも、池上については、最初の事情聴取の際には、前記のとおり丁岡の電話に関して検房との関係は何ら供述していなかったこと、昭和五二年の本格的事情聴取にあたっては、その前に関係者らほぼ全員(縄手は含まれていない)による実況見分が行われたことがうかがわれるのであり、その影響は無視できないこと、池上、吉崎、切通は、昭和五二年に事情聴取を受けたことについては証言するが、それと接着して行われた実況見分については一致して覚えていない旨を証言しているのであり、いささか不自然の感は否めないこと、切通は、雑用が多かったとはいうものの、本件捜査本部要員として捜査にあたっていたことに照らすと、右池上らの証言をそのまま信用することにはちゅうちょせざるを得ない。

この点について、検察官は、当日の状況から、池上については、「同一施設における園児の連続した行方不明の連絡及びこれに続く園児の死体発見という池上にとって極めて特異な出来事があったのであり、丁岡からのY子についての電話状況についても池上の記憶に残ることは不自然なことではない」旨、また、吉崎については、「当夜は、同一場所における園児の連続した行方不明の連絡、これに続く園児の死体発見報告及びバキュームカーの出動要請という吉崎にとって極めて特異な出来事があり、また、通常であれば検房に参加しなければならないところ、これを休んで他の仕事をしたという吉崎にとって特異な出来事があったのであり、それまでにY子が行方不明になって西宮署員が二日間連続して大勢で捜索している状況下において、Y子の問い合わせ電話がマスコミ関係者からあった場合、その電話については印象に残りやすいと思われ、右特異な出来事が生じた場合に、その時点で、Y子に関する丁岡の電話の記載についても、Y子の死亡というショッキングな事実と関連付けて強く記憶に保持されることは不合理なものではない」旨主張する。

確かに、右電話は、検察官が主張するような特異な出来事があった日のことであり、電話があったこと自体についてはそのことと関連付けて記憶に残っても不自然、不合理といえない面があることは否定できない。しかしながら、本件で問題としているのは、右電話がいつころあったのかということであり、もともと記憶に残りにくいものであるうえ、吉崎らはそれが特定できないため、電話の前後の状況、それも検房という日常的な業務と関連付けてその時刻を推測して供述しているのである。このような電話あるいは電話の前後の状況というのは、検察官の主張する特異な出来事と直結しているものではなく、特異な出来事があったからといって強く印象付けられるものではない。このことは、池上が、49・4・20捜復においては、右電話の時刻について、電話の前後の状況から推測するのではなく、「切通からまた園児がいなくなった旨の連絡を受け直ちに甲山学園に向けて出発した時刻」という特異な出来事から推測して供述していることからもうかがわれるところである。したがって、検察官の右主張は理由がないといわざるを得ない。

(4) 49・4・20捜復に検房事実が触れられていないことについて

前記のとおり、池上に関する49・4・20捜復には、検房事実については何ら触れていないことについて、検察官は、「池上が受けた事情聴取は極めて簡単なものであり、また、池上自身、右電話の時刻の特定が本件捜査において重要であるとの認識を持っていなかったことを考えれば、池上が昭和四九年当時の事情聴取時においては、右電話の前後の状況をじっくり考えるなどして自己の記憶を喚起することなく、漫然と質問に答えていたと思われる。そして、捜査本部自体、沢崎の逮捕時までは、丙谷、丁沢及び丁岡電話の時刻については重要視しておらず、検察官の指示があったため沢崎の逮捕後に、捜査を始めたにすぎないのであり、右のような警察の捜査状況をみれば、昭和四九年当時、右電話について、その正確な時刻を確認するための詳細な裏付け捜査を行っていなかったとしても不自然ではない」旨主張する。

しかしながら、前記のとおり、昭和四九年三月から四月にかけて管理棟事務室内での電話に関する捜査が行われていたのであり、当然のことながら、電話の時刻に関しても捜査の対象になっていたといわざるを得ない。ただ、高橋当審証言によれば、「丁岡電話等については、Xが行方不明となった時間帯から離れているということでその当時は問題にしておらず、沢崎の逮捕以前には裏付け捜査はしていないと思う。この裏付けについては、検察庁の指示もあって沢崎の逮捕後にやったように思う。そして、その結果、丁岡が西宮署に電話していることが分かった。丁岡の西宮署への電話に関する裏付け捜査としては、一応、西宮署に丁岡が電話したかどうかの確認をそのころ行っているが、その時刻を確定するための裏付け捜査まではしておらず、やはり検察庁の指示で、この捜査は、その後一年以上経ってからしている」というのであり、このことは、右捜復の下命事項欄には、「ラジオ大阪放送局からの照会電話の有無について確認のこと」となっていること、捜査本部が丁岡の西宮署への電話時刻に関して、昭和四九年当時池上や他の宿直勤務の警察官から詳しく事情聴取を行った形跡はないこと、当夜の宿直日誌、検房日誌等の関係資料が押収されたのが昭和五〇年六月に至ってからということからもうかがわれるところである。

とはいっても、そのことから直ちに検察官が主張するような「簡単な事情聴取であり」、池上が「右電話の前後の状況をじっくり考えるなどして自己の記憶を喚起することなく漫然と質問に答えていた」ということには疑問がある。すなわち、右捜復には、右電話の時刻については根拠を示して一応の推測を供述しているのであって、じっくり考えず漫然と答えたということで説明できるものではなく、むしろ、池上にはその程度の記憶しかなかったものと推測せざるを得ないのである。

(5) 吉崎証言と池上証言の電話交替状況についての供述の食い違い等

以上みてきたように、池上らの証言については根本的な疑問を指摘せざるを得ないのであるが、さらに、証言内容についても検討しておく。

前記のとおり、吉崎証言によれば、丁岡から電話がかかってきたのは「検房が終わってみんなが公廨の方にやって来る足音や話声がしたころ」というのであり、池上証言によれば、「検房を終えて公廨に一番先に入って」すぐに吉崎に言われて電話を替わったというのである。

しかしながら、吉崎証言と池上証言には、電話を交替した状況について食い違いが存しているのである。すなわち、吉崎は、「池上は公廨におらず、誰かが池上は部屋にいるような話をしたので、受話器を置いて東側出入口から出て、防犯課の部屋の方に行こうとしたところ、階段のところで池上と会い、一緒に公廨に戻り、池上がその電話に出た」旨供述するのに対し、池上は、「普段は検房終了後に保安課の部屋の掃除をするのであるが、この日は、検房後に旅行の話をするということで部屋に戻らずに公廨に行った。入ってストーブの方に歩きかけた時、吉崎から『池さん電話やで』との声がかかり、電話に出た」旨供述しており、電話を交替した状況について食い違いがみられる。時刻を問題にしている場面において右のような食い違いが存していることは、その時刻に関する供述の正確性に疑問を抱かせるものといわざるを得ない。

そして、両者の証言を検討すると、池上において、記憶喚起にあたり、検房終了後公廨に集まってくれと言われていたこと、検房終了後公廨内の電話機で丁岡と通話したこと、通常検房終了直後に行っていた保安課の部屋の掃除を甲山学園から帰って行ったことから、いったん保安課の部屋の方に戻った事実を忘れ、検房後は直接公廨に行き公廨内で吉崎から電話が入っているとの連絡を受けたと考えた可能性が大きいのである。

そうすると、池上は、検房終了後公廨に集ってくれと言われたと証言するものの、検房終了後は公廨の前を通って自分の部屋である保安課に戻っていたことになるのであり、宿直勤務者は原則として公廨で待機しているのであるが必ずしも全員ではなくそれぞれの部屋で仕事や掃除をするものもいたことに照らすと、果たして、検房終了後にみんなが一斉に公廨に入ってきたのか疑問であり、吉崎証言の「足音や話し声」というのが本当にあったのか、あったとしてもそれが検房終了によるものであるのかいささか疑問である。

また、旅行の相談をいつ始めるのかについても、池上証言と切通証言では「検房終了後」ということであるが、吉崎証言では「検房がすんで午後八時になってから」と食い違いがあり、この点においても正確性に欠けているといわざるを得ないのであり、旅行の相談をいつ始めるのか自体が明確に話し合われそれが全員に伝達されていたのかについても疑問を感じるところである。

検察官は、「吉崎は、警務係一六番の電話をとるにあたり、同電話機の設置場所が離れているため、自己の机で行っていた仕事を中断し、同電話機の所まで歩いているのであり、このことは、当時、同電話機の付近には手すきの宿直職員が誰もいなかったことを示している。そして、検房終了後、宿直職員にさしたる仕事が存しないこと、当時、警務係一六番の電話機のそばにはストーブが置かれていたことを考えれば、吉崎が電話をとったのは、検房終了後に宿直職員が公廨内に戻ってくる前であったことを推測させる」旨主張する。しかしながら、吉崎の机と右電話機が離れているといっても、同じ警務係の机であってそれほど離れているものではなく、また、そのことによって同電話機の付近に人がいなかったことはいえても、それが検房終了後に宿直職員が公廨内に戻ってくる前といえるのかは疑問である。

(6) 検房終了時刻の検討

次に、当夜、西宮署における検房が終了した時刻について検討する。

前記のとおり、西宮署における三月一九日の検房の結果を記録した検房日誌(当審検二四六)には、当日の検房開始時刻が午後七時三〇分、検房終了時刻が午後七時五〇分である旨の記載がある。

当日の検房の実際の責任者であった縄手は、「検房日誌の時刻欄を後日に書き入れるようなことはあり得ず、自分が記載する場合、開始及び終了時刻については必ず時計で確認して記載していた。また、看守勤務者が機転をきかせて書いてくれることもあったが、その時も記憶が正しいかどうかを確認していた」旨証言し、また、右記載の時刻については、当日検房を実際に行った池上、縄手の各証言内容からみても不自然なところはなく、吉崎、切通、池上、縄手の各証言によって認められる西宮署での通常の検房の実施状況、検房実施に要する時間とも矛盾しないものであり、これに、右検房日誌の性質、記載状況や決裁印の存在等をあわせ考慮すれば、右記載内容の信用性は高いといえる。

もっとも、右検房日誌については、その検房実施時間欄の記載が誰の字であるか不明であるとか、事件翌日の二〇日朝に行われた洗面等実施時間欄の記載が、「午前八時〇分~二〇時一五分」と、一見して事実と異なると思われるものになっており、しかも訂正をしたような記載になっていることが認められるのであるが、縄手は、右検房実施時間欄の記載者が縄手自身であることを否定しているものでもなく、まして検房実施と無関係の者がその時刻を記載した可能性があると証言しているものでもないこと、縄手において記載の正確性については確認している旨証言していること、洗面等実施時間欄の記載については、単純に「午前八時〇分~八時一五分」の誤記とも思われるうえ、右洗面等の責任者は縄手ではなく三好常松であることに照らすと、右のことは前記検房日誌の信用性に影響を与えるものとはいえない。

したがって、西宮署における検房が終了した時刻は検察官が主張するように午後七時五〇分ころであったと認めることができる。しかしながら、縄手証言によれば「検房終了時刻の記載については、五分を単位として記載し、それに合わせて端数を近い方に切り上げたり、切り下げたりしていた」というのであり、その時刻自体は厳密なものではなく、数分程度の幅を持ったものであるといわざるを得ない。

(7) 小括

以上みてきたように、検房終了時刻によって丁岡からの電話の時刻を推測する吉崎及び池上の各証言については、根本的な疑問があるうえ、その証言内容についても、吉崎については足音や話し声というのが検房終了のときのものであるのか、また、その時間の感覚などが正確なものといえるのか、池上については、検房終了後どのくらいの時間が経ってから電話に出たのかなどの疑問や不明な点が指摘できるのであり、また、検房終了時刻についても厳密な時刻とはいえないという問題があるのである。

これらを総合すると、結局、右各証言によっていえることは、丁岡からかかってきた電話の時刻は検房が終了してからということだけであって、それ以上に、午後七時五〇分という検房終了時刻を起点にしてその時刻を特定することはできないといわざるを得ない。

(五) 丁岡が西宮署に電話をかけた時刻に関する池上、切通証言とその検討

なお、池上は、池上が丁岡と通話中に旅行の相談が始まったこと、旅行の相談は午後八時ころに始まったことを証言し、また、切通は、「当夜は、刑事課の田中源之助、田中勇郎、久米と共に当直開始から受付勤務についた。後輩である自分と久米が先に受付台に座り、交替時間がきちっと決まっているわけではないが、午後八時ころをめどに替わっていた」旨証言しており、これらの証言からは、丁岡から電話があったのは午後八時前であるということが一応いえるようにみえる。

しかしながら、前記のとおり、右池上らの証言の信用性には根本的な疑問があり、旅行の相談の開始と丁岡らの電話についての先後関係について記憶があったのか疑問を抱かざるを得ないことに加え、右証言内容によっても、旅行の相談の開始時刻が午後八時であると特定できるものではなく、午後八時を何分過ぎていたのかは不明であること、受付勤務の交替に関しては、当夜の受付勤務の状況を示す客観的証拠ともいうべき連携日誌(当審弁九六)によれば、切通とペアを組んで受付を担当した久米博之が午後八時一五分及び午後八時二七分の無線連絡に出ている旨の記載があり、右切通の証言と異なっていること、切通は、交替時間がきちっと決まっているわけではないことも証言しているのであって、切通証言によって認められる現実に行っていた受付業務の状況からすれば、右久米が受付勤務を交替して受付台から下に降りていても無線連絡に出る可能性が十分にあったとはいうものの、右連携日誌には二度にわたり右久米が無線連絡に出ている旨の記載があることは、むしろ、受付勤務に関する切通の証言を否定するものというのが自然であることに照らすと、前記証言により丁岡からの電話があったのは午後八時前であるということはできないといわざるを得ない。

(六) 丁岡電話の通話時間及び丁岡電話終了後丁岡が西宮署に電話するまでの時間の特定について

さらに、丁岡電話の通話時間及び丁岡電話終了後に丁岡が西宮署に電話するまでの時間が証拠上認定できるかについて付言する。

丁岡電話の通話時間について、丁岡は、「はっきり覚えていないが、せいぜい数分から一〇分ぐらいの範囲と思う」旨(丁岡証言)、また、「五、六分から一〇分ぐらいはかかった感じである」旨(49・6・20検面当審弁一〇一)供述し、丁岡電話をかけた乙谷は、「約七、八分であったと思う。」(49・4・1巡面当審検一八)とか「ちょっと長い電話で、三、四分ぐらいかかった」旨(49・6・24検面検一四七)供述するのであって、丁岡及び乙谷の供述からは、いずれも丁岡電話の通話時間について正確に特定をなし得るような時間感覚を有してはいないというべきである。

また、丁岡電話後に西宮署に電話するまでのことについて、丁岡は、「電話帳か電話局で西宮署の電話番号を調べて電話した。あまり時間をあけていなかったと記憶している。せいぜい数分以内ではなかったかと思う」(丁岡証言)とか、「五分も間をおかないでかけたと思う。一〇四で西宮署の電話番号を確かめてからかけた」旨(49・6・20検面)供述しているのであり、やはり、正確な特定はできないといわざるを得ない。

(七) まとめ

以上を総合していえることは、丁岡が西宮署にかけた電話の時刻を西宮署における検房終了時刻を基準にして特定することには疑問があり、また、他に右電話の時刻を特定し得るものはないということであって、右電話から丁岡電話の時刻を特定することはできないといわざるを得ない。

したがって、検察官主張のような「丁岡電話は七時四〇分台の電話である」ということは認められないというべきであり、むしろ、前記丙谷電話、丁沢電話の時刻に関する検討内容に照らすと、丁岡電話の時刻は午後八時ころ以降の可能性があるといわざるを得ない。

五  B電話の時刻について

検察官は、「B電話は午後七時四〇分ころから数分間の電話である」旨主張するので、以下、検討する。

1  丁岡太郎証言の概要

丁原太郎は、「大一倉庫の作業現場で丙田九男らと作業中、息子のBに電話をしようと思い、腕時計を見たら午後七時三〇分だったので現場から二〇メートルほど離れた事務所にいき、腕時計をはずして机の上に置き、甲山学園の電話番号をメモ帳で確認して電話をした。しかし、話し中であったので、また作業現場に戻って作業を続けた。腕時計を事務所に置き忘れたので、また電話をするつもりで丙岡に『今何時や』と聞いたところ、丙岡が腕時計を見て『四〇分や』と言ったので、事務所に行き甲山学園に電話した。男の先生が出たので、大変なことが起きましたねなどと話をし、子供を呼んでくれるように頼んだ。少ししてBが電話に出たので話をし、その後また男の先生と替わってもらい、挨拶程度の話を少しして電話を切った。電話をしてから切るまでの時間は、普段より短く、おおよそ五、六分と思う」旨証言している。

2  丙岡九男証言及び同人の52・5・2検面の概要

そして、丙岡九男は、「丁原太郎と大一倉庫の敷地で荷物の積み替え作業をしていたが、その途中、太郎は息子に電話してくると言って事務所の方に行ったが、話し中であったということで戻ってきた。その後作業中、太郎から今何時と聞かれたので、腕時計を見て何時何分と教えた。太郎は、もう一度電話してくると言って事務所の方に電話をしに行った。その時刻が何時何分であったか今はもう覚えていないが、以前は覚えていた。このことについて、警察官や検察官から事情聴取を受け、調書が作成されているが、当時は記憶どおり述べている」旨証言し、捜査時の52・5・2検面(当審検一三七)において、「作業中に丁原太郎が時刻を尋ねたので、腕時計を見るとちょうど針が七時四〇分を指していたので、『今七時四〇分や』と言って教えてあげた。太郎が事務所に行って戻ってくるまでの時間は、時計で計っていたわけではないが、五分以上一〇分までであったと思う」旨供述しているのであり、右丁原太郎証言を裏付けている。

3  乙谷及び乙野の各供述

これに加えて、丁原太郎からの電話を受けた乙谷の供述をみると、乙谷は、捜査時において、「午後七時四五分ころだったと思うが、Bの父親から電話がかかり、戊田か沢崎が受話器を取り、その取り次ぎには自分が青葉寮に行き、廊下に立っていた乙野にBの父親からの電話のことを言い、すぐに事務室に帰った」(49・4・1巡面)、「Bの父親からの電話の時刻は午後七時四五分ころと思う。ただ、その時刻を確認したものでもないので、正確とはいえず、そのころという以上を出ない。帰園した時刻を一応午後七時半ころとして、いろいろ話したり飲み食いした時間を考えてみると一五分間位たっていたように思うので、そう言っている。青葉寮保母室の内線を入れたが応答がなかったので、電話のことを知らせに走って青葉寮に行った」(49・6・24検面)旨供述し、国賠訴訟において、「七時四五分にBの父親から電話が入った。時刻は、時計で確かめたのではなく、帰園後の時間的な流れとか園長が出ていくときの時間を確かめたときからの記憶である。受話器は沢崎が取って、私がそれをすぐ受け取って出たと思う。丁原太郎は、事件は大変ですねというような話をして、息子と話したいので呼んでほしいというので、青葉寮保母室に内線をしたが、出なかったので青葉寮に呼びに行った」旨供述する。

また、乙谷から連絡を受けた乙野の供述をみると乙野は、「乙谷がBの父親からの電話を知らせてきたのは、午後七時四〇分ころになるのではないかと思う。乙谷の、『Bに電話』という声が聞こえたので廊下に出たところ、Bがちょうど男子保母室前に来たので、中に入れ、受話器を取ってすぐにBに渡してあげ、Bが話し終わった後に、自分もBの父親と話をした。Y子がいなくなったんだってねとの趣旨の話をされた。受話器を取ってから置くまでの間は、いつもは電話は長いが、それから考えれば五、六分はかかっているのではないかと思う」旨証言し、捜査時において、おおむね、右証言と同様の経緯を供述し、「Bの父親から電話がかかってきたのは午後七時四〇分か五〇分ころであり、電話にかかった時間は五、六分ぐらいと思う」旨供述する。

このように、乙谷及び乙野のいずれも、丁原太郎からの電話時刻及び右電話を乙谷が伝えに来た時刻及び通話時間について、時計等で確認しているわけではなく、自己の行動の前後の状況から感覚的に判断しているにすぎないものではあるが、前記丁原太郎証言及び丙岡九男の証言あるいは供述と食い違うものではなく、むしろ、それを裏付けているといえる。

4  小括

これらを総合すると、検察官が主張するように、B電話の時刻は午後七時四〇分ころであり、通話に要した時間は五、六分であったと認めることができる。

六  検察官の「B電話と丁岡電話が時間的に重なっている」旨の主張について

1  検察官の両電話の時刻からの重畳の可能性の主張とその検討

検察官は、「B電話は、午後七時四〇分直後ころを始期とした通話時間が五、六分ないし六、七分の電話であると思われ、一方、丁岡電話は、午後七時四〇分台の電話であって、その開始時刻は午後七時四〇分台の前半であった可能性が極めて高いと考えられるので、B電話と丁岡電話が重畳している可能性が高い」旨主張する。

しかしながら、B電話に関しては、ほぼ検察官主張のように午後七時四〇分ころの電話であったと認められるが、丁岡電話に関しては、右検察官が主張するような開始時刻を特定することはできず、むしろ、それと異なった午後八時以降ころの可能性も否定できないのであるから、これまで検討した両電話の時刻から両電話の時間的重なりを推認することはできないといわざるを得ない。

2  検察官の電話機の使用状況からの重畳の可能性の主張とその検討

さらに、検察官は、「<1>乙谷は、丁岡電話をかける際、甲山学園及びその関連施設に設置されたいずれかの電話機が甲山学園回線を使用して通話中であったため、北山学園回線を使用してかけたこと、<2>その時間帯に右甲山学園回線が使用されたのはB電話のみであることから、B電話と丁岡電話が重畳している事実が認められる」旨主張し、右<1>の根拠として乙谷の49・7・2検面(検一四八)及び乙谷の手帳(検二三〇)をあげ、右<2>の根拠として管理棟事務室以外の施設での電話機の使用状況に関する証拠をあげる。

右1で述べたように、B電話の時刻と丁岡電話の時刻からは両電話の時間的重なりを推認することはできず、むしろ、それを否定する可能性もあるのであり、もはやこれ以上両電話の時間的重なりについて検討する必要はないといえなくはないが、両電話ともその時刻が厳密に特定できるものではなくある程度の幅を持ったものであるうえ、丁岡電話の時刻については、可能性として認められる丙谷電話と丁沢電話の幅のある時刻から推測しうる範囲での時刻の可能性にすぎないものであり、右<1>、<2>の検察官の主張事実が認められるとすれば、右の丁岡電話の時刻の認定に影響するとも考えられるので、以下、検察官の右主張について順次検討する。

(一) 乙谷の供述及び乙谷の手帳について

(1) 乙谷の供述及び乙谷の手帳の記載の概要と検察官の主張の検討

乙谷の49・7・2検面には、「大阪放送の報道部に電話をかけていた際に、電話機の外線ランプがついていた記憶がある。そのランプは甲山学園の電話番号であったと記憶している。大阪放送の方からこちらの電話番号を尋ねられ、北山学園の電話番号を答えた。これは、私がその電話番号を使って報道部に電話をかけたので、それを答えたものだと思っている。そういうわけで、私がその通話をする際に点灯していた外線は、甲山学園の電話番号だったと思っている。報道部との電話を終えた後、沢崎から、『今言った番号は、北山学園の番号でしょう』と言われた記憶がある。しかし、その番号で外からかかってきても甲山学園で通話はできるので、報道部には改めて言い直すため電話をかけたりはしなかった」旨の記載がある。そして、乙谷の手帳(検二三〇)中の昭和四九年五月三〇日の欄には、「詰っていたから北山のTELでした。だからラジオ大阪に北山のTELをおしえた」との記載があり、また、沢崎も、昭和四九年六月二八日の検察官による取調べ時において、「乙谷が電話していた時に電気がついていたのを覚えている。電話番号を間違って言っているので、私がそれ北山学園の番号じゃないのと言ったのを覚えている」、「乙谷がラジオ大阪に北山学園の番号を言っていた」、「丁沢かラジオ大阪かどっちか分からないが、ランプがついていた。そして、乙谷が北山学園の電話番号を教えたので、私がそれを甲山学園のじゃないよと乙谷に言った」旨供述(当審検一七)しており、右乙谷の供述を裏付ける形になっている。

そこで、右乙谷の供述から、検察官が主張する「丁岡電話をかける際、甲山学園及びその関連施設に設置されたいずれかの電話機が甲山学園回線を使用して通話中であったため、北山学園回線を使用してかけた」との事実が認定できるのかを以下検討するが、右乙谷の供述は事件後三か月以上経ってなされたものであり、その内容も推測を含めた記載となっており、しかも、右以外の同人の供述調書中にはその旨の記載がなく、同人は国賠訴訟における供述及び乙谷証言でこの点を否定しているのであるから、慎重な検討が必要である。

(2) 弁護人の主張とその検討

弁護人は、「乙谷は、当初から丁岡電話は午後八時ころとの時間認識を有していたが、戊川電話が午後八時ころという情報を得て同電話との重畳の可能性を意識するようになり、自己の記憶や認識の整理をするなかで、戊川電話は甲山学園の電話回線を使用したことを前提にして、また、沢崎に言われた記憶をよりどころにして、丁岡に教えた電話番号は北山学園のものではないかと推論し、さらに、甲山学園の電話回線を使用したとの記憶であったが、戊川も甲山学園の職員であるから甲山学園の電話を使用したのではないかとの認識を否定出来ず、そのため自分が使用した電話を北山学園の電話回線であると推測するようになり、そのうえで北山学園の電話番号を教えた理由を北山学園の電話回線を使用していたことに求め、記憶の片隅にあったランプは外線ランプで甲山学園のものと推測していったものと推察される。そして、乙谷は、その推理、推論の一端を、乙谷の手帳にしたため、七月二日にはそのすべてを検察官に供述した」旨主張する。

そこで検討するに、乙谷は、49・4・1巡面において、丁岡電話を午後八時ころと供述していること、乙谷の四九年三月、四月ころの供述調書や捜復には、丁岡電話の際に使用した回線、丁岡に教えた電話番号、外線ランプの点灯などに関する供述が一切ないこと、乙谷の手帳(検二三一)の四月二三日のメモと思われる部分には、「8じ戊川TEL」との記載があり、また日録(当審検二五)のメモには「8:05ラジオ大阪にTel。デスクと相談の上ということで、こちらのTel番号を教える。京都の東洋ホテルより戊川さんが8:00に学園にTel」との記載があること、乙谷は、「弁護団会議で、乙木が若葉寮職員室で戊川と午後八時に電話で通話していたとの情報を得ていた」旨証言していること、乙木及び戊川については、午後八時の若葉寮職員室での電話の事実を供述してはいたものの、事件後しばらくの間は、その際の使用回線についてまでは説明をしていなかったことがうかがわれること、乙谷が沢崎の支援活動を積極的に行い、沢崎のアリバイを熱心に主張していたことに照らすと、乙谷が、弁護団会議で得られた情報等をもとに、弁護人の主張のように戊川電話と丁岡電話が時間的に重なり合っていると推理、推測した蓋然性が高いということができる。

そして、乙谷の手帳(検二三〇)の記載内容は、前記のとおり、「詰っていたから北山のTELでした。だからラジオ大阪に北山のTELをおしえた」というものであるが、この記載自体からは「甲山学園の回線が詰っていたから北山学園の回線で電話をした」という事実から「だからラジオ大阪に北山学園の電話番号をおしえた」と推測したと読めるものの、「ラジオ大阪に北山学園の電話番号をおしえた」ことの理由として「甲山学園の回線が詰っていたから北山学園の回線で電話をした」ことを推測したものとも読めるのであり、右記載からはどの部分が記憶としてある事実なのか断定できない内容となっている。また、49・7・2検面の記載内容をみると、「ラジオ大阪の報道部に電話をかけていた際に、電話機の外線のランプがついていた」こと、「ラジオ大阪の方に北山学園の電話番号を答えた」こと、「ラジオ大阪との電話を終えた後、沢崎から、『今言った番号は、北山学園の番号でしょう』と言われた」ことは記憶としてあるいは事実として供述しているが、点灯していた外線が甲山学園の回線であることは推測として、丁岡電話を北山学園の回線でかけたことはどちらともとれるものとして供述している。

したがって、この記載内容からは、「丁岡電話をかける際に甲山学園の回線が使用中であったこと」、「そのため、北山学園の回線を使用して丁岡電話をかけたこと」は、直ちにはいえないものである。

なお、右記載内容によれば、「ラジオ大阪の報道部に電話をかけていた際に」電話機の外線ランプがついていた記憶があるとなっているのであり、丁岡電話をかけている最中に外線ランプがついていたことが分かった趣旨となっているのである。

そして、乙谷の手帳(当審検二三九)の右49・7・2検面の際の供述を乙谷が記載した部分には、「外線のランプついていた記憶あり」、「OBCに北のTELをおしえた」、「いまいったTELはまちがいよ」という記載はあるが、「丁岡電話のときに北山回線を使った」とか「点灯していた外線のランプが甲山学園の回線だった」というような記載はないのであり、このことは、弁護人が主張するように、「記載がある点については確かな記憶があるが、記載のない点については乙谷自身の推測、推理であったが故に、右手帳の記載から脱落している」ことを示すものということも可能である。

これらを総合すれば、右弁護人の主張を一概に否定できないと言わざるを得ない。

(二) 電話使用状況について

検察官は、前記のとおり、「丁岡電話の時間帯に甲山学園回線が使用されたのはB電話のみである」として、管理棟事務室以外の各施設での電話機の使用状況に関する証拠をあげる。しかしながら、前記のとおり、そもそも、丁岡電話のときについていた外線ランプが甲山学園のものと断定することはできず、また、検察官がいう「丁岡電話の時間帯」については、検察官主張のように午後七時四〇分台であると証拠上特定することができないのであるから、検察官主張の証拠を検討する意味は少ないといえるのであるが、この証拠によって確定的に何らかの事実が特定できるのであれば、丁岡電話の時刻の特定になにがしか影響する場合も考えられるので、念のため、以下で検討しておく。

(1) 検察官挙示の各供述の信用性についての一般的考察

まず、検察官があげる証拠というのは、甲山学園、北山学園、甲寿園、甲山ハウス等の各施設に勤務していた者のうち、事件当日に現に勤務していた者あるいは事件当日の夜はその施設に誰もいなかったことを知っている者の供述である。

そもそも、電話をかけたかどうかという出来事は、その日に事件があったとしてもそれと直接関係していない限り、記憶に残りがたいものというべきである。それも、一般的に、事件のあった日に電話をかけなかったということの証言を求められているのであり、特別の事情がない限りそれを記憶していること自体がいささか不自然である。しかも、各証言により明らかになったのは、そのほとんどの者が、いずれも事件から長期間経過してからこの点に関する供述を求められていることであって、このことは、さらにその不自然さを増すものといわざるを得ない。

以下、具体的に検討する。

(2) 甲山学園について

ア 青葉寮の電話機使用状況についてみると、当夜青葉寮で勤務していたのは、宿直職員の乙野及び乙原の二名であるところ、乙野は「当夜は丁原太郎からの電話以外、青葉寮内の電話機は使っていない」旨、乙原は「午後七時四〇分ころBに電話があり、また、午後八時三五分に自分が副園長に電話したことがあるが、それ以外には青葉寮の電話機は使っていない」旨証言している。

右両名の供述は、事件当初から一貫しており、その供述する当夜の仕事内容に照らしても信用しうるものである。また、電話機の設置されている青葉寮男子保母室は、職員がいないときは鍵を閉めて園児が入らないようにしていたことが認められ、このような管理状況からすれば、青葉寮収容児童が勝手に電話機を使用することはほとんど考えられない。これらを総合すれば、青葉寮男子保母室の電話機については、午後七時四〇分ころのB電話以外には、Xの行方不明が分かるまでに使用されていなかったと認められる。

イ 若葉寮の電話機使用状況についてみると、当夜の若葉寮宿直職員は、実習生を含め丁谷竹子、乙坂四子(旧姓丙内。以下「丙内」という)、戊谷梅子(以下「戊谷」という)、戊森十男の四名であり、電話機のある同寮職員室の当夜の在室者は乙木であり、戊田も一時同室にいた。

そして、乙木は、「若葉寮職員室に午後七時五〇分ころ行ったが、職員室の電話機を使用したのは、午後八時に戊川から北山学園回線を使用してかかってきた電話に出ただけである」旨証言する。また、丁谷竹子は、「宿直職員と夕食の準備をし、食堂で子供に食事をさせ、おしぼりを洗ってからプレイルームに行った。プレイルームで子供達と遊んだ後、自己の担当の子供を就寝させ、その後、廊下の掃除を誰かとしている時に、女性が玄関のドアを開けてXの行方不明を知らせてきた。この間若葉寮職員室の電話を使ったことはない。電話を受けたこともなかったと思う」旨、丙内は、「午後七時半より少し遅めに園児の就寝介助を始め、園児を寝かせてから洗体室に汚れ物を持って行った。廊下にいたときXの行方不明を聞いた。この間、若葉寮職員室の電話機を使った覚えはない」旨証言し、戊谷は、証言では「当日の具体的なことは覚えていない」旨供述するが、捜査時において、「園児の就寝介助を午後七時二〇分ころから始め、午後八時過ぎに寝かせ終わり、洗体室に行って園児の汚れ物を洗っていたところ、午後八時二〇分ころにXの行方不明を知らされた。Xが行方不明になってから副園長の指示で園長宅等に電話したことがあるが、それ以外には電話機を使用したことはなく、かかってきたこともない」旨供述(52・4・26検面当審検一四六)する。

若葉寮は重度の精神遅滞児童約三〇名を収容している施設であり、それを宿直者三名程度で面倒をみるという勤務体制からして、夕食後から園児を就寝させるまでの間は極めて忙しい時間帯であり、そのような時間帯に宿直者が電話を使用することは、特別の事情がない限り通常考えられず、使用しておればある程度記憶に残るのが普通と思われ、また、右三名とも当夜にXの行方不明を聞いてそれぞれ捜索活動をしているのであり、右三名の電話機に関する証言及び供述は信用できるといえる。

また、戊森十男は、当夜の具体的な記憶はないものの、「実習に行っていた際に、甲山学園の電話機を使って電話をしたり、電話を受けたりしたことはなかったと思う。電話をかけるような用事などなかったからである」旨証言しており、甲山学園職員でない実習生であることを考えると、甲山学園の電話機を勝手に使用することがなかったという証言は自然であり、信用できるといえる。

さらに、若葉寮収容児童は重度の精神遅滞児であり、職員の介助を必要としていることを考えれば、右児童らが電話機を使用することは考えられない。

これらを総合すれば、若葉寮職員室の電話機については、当夜は、Xの行方不明の知らせがあるまでには、午後八時の北山学園回線を使用した戊川電話以外には、使用されていなかったと合理的に推測できる。

(3) 北山学園、総合事務所、厨房、診療所について

北山学園については同園副園長であった乙岡五子の証言(乙岡証言)により、総合事務所については同事務所で勤務していた丁村二雄の証言(丁村証言)及び供述(52・5・13検面当審検一九七)により、厨房については同調理師であった戊石三雄の証言(戊石証言)及び供述(52・5・20検面当審検一九五)により、診療所については同薬剤師であった丁丘六子(旧姓丁内)の証言(丁内証言)及び供述(52・5・12検面当審検一九四)により、いずれの施設とも、通常であれば勤務時間である午後五時ころには鍵を閉めるなどしており、それ以降は使用できない状態になっていることが認められる。

そして、同人らはいずれも、事件当日もいつものように帰った趣旨の供述をしているのであるが、同人らがこの点に関して最初に事情聴取を受けたのがいずれも事件から約三年後のことであることからすれば、当日の出来事としてそもそも記憶としてあったのか極めて疑問である。検察官は、戊石三雄及び丁村二雄は、当日Xの行方不明の連絡を受けて捜索に加わったりしているので、衝撃的な事件が発生した日の出来事として記憶していたとしても不自然ではない旨主張するが、事件が発生したことと何時ころ帰ったのかなどとは直接関連していることではないのであり、しかも、初めて事情聴取されたのが事件後間もないころであればまだしも、約三年後になってからであることを考えれば、検察官の主張はとれないといわざるを得ない。この点において、特段の事情と関連付けて供述をしていない戊石三雄(厨房)、丁内六子(診療所)の供述は、そのまま信用するには疑問がある。なお、厨房では鍵を持っている調理師がもう一人いたことや、診療所では看護婦の夜勤がありその日は夜勤がない日であったというがそれを裏付ける証拠がないことも無視できない。

また、乙岡五子(北山学園)は翌日は卒園式なので美容院に行ったことやY子捜索のことで甲山学園から依頼がなかったことに少なからず不満を持っていたことと関連付けて、当日は普通に帰った旨証言し、丁村二雄(総合事務所)はそのころ姪が来ていたことと関連付けてできるだけ早く帰ることにしていた旨供述しているのであり、丁村については姪が来ていたのが事件当日のことと特定できるのかやや疑問ではあるが、それぞれ当日の自己の行動としては信用できるといってよい。しかしながら、北山学園も総合事務所もいずれも他に職員が数名(六名)いるのであり、それらの職員の行動について、「一緒に帰ったように思う」(乙岡証言)、「他の人も残業はしていないと思う」(丁村証言)旨供述しているが、そこまで記憶をしていたとは思われず、推測を述べているにすぎないものであり、他の職員が残業をしていなかった可能性は高いとしても、それを全く否定することはできないところである。

(4) 甲寿園について

甲寿園の電話機使用状況についてみると、宿直寮母であった戊内七子、乙村八子、戊島九子(旧姓戊崎、以下「戊崎」という)は、いずれも、当夜はその電話機を使用しなかった旨供述する(戊内証言、乙村証言、戊崎証言、戊崎の52・5・4検面当審検二〇八)。同人らは、その仕事内容、収容者の通常の電話機使用状況等もあわせて供述しているのであり、三人の供述がほとんど一致していることや通常の午後七時ころからの収容者の介助などの作業内容等に照らすと、職員及び収容者によって電話機が使用された可能性は低いことがうかがわれる。

しかしながら、甲寿園は特別養護老人ホームであって一〇〇名近くが収容されているのであり、その収容者が勝手に電話機を使用する可能性は否定できないこと、前記のとおり、電話をかけたかどうかという出来事は記憶に残りがたいものであり、同人らの供述には、この日に特別の事情があって電話のことが記憶に残りやすかったことをうかがわせるものはないこと(なお、検察官は、衝撃的な事件が発生したという特殊な勤務日であることを指摘するが、前記のとおり、事件の発生と通常の勤務をしていた際の電話の使用の有無とは関連性がなく、検察官の指摘は理由がない)、同人らが電話のことに関して最初に事情聴取されたのは、事件から、戊崎は約二年後、戊内七子及び乙村八子は約三年後であることがうかがわれるのであり、果たして記憶があったのか疑問であることに照らすと、同人らの供述をそのまま信用することはできず、電話機が使用された可能性は低いとはいいうるものの、それを全く否定することはできないといわざるを得ない。

(5) 甲山ハウスについて

甲山ハウスの電話機使用状況についてみると、若葉寮職員であった丁崎五江(旧姓丁野。以下「丁野五江」という)及びボイラー係であった丙村六夫の証言によれば、当夜、丁野五江は午後五時ころまでに、丙村六夫は午後七時ころに甲山ハウスに行っていたが、いずれも在室中に甲山ハウスの電話機を使用しておらず、その電話機を他の人が使用しているのも見ていない旨供述する。

しかしながら、同人らのこの点に関する供述は必ずしも明確なものではなく、B電話や丙林電話にも気付いていないこと、前記のとおり、電話に関しては記憶に残りにくい出来事であることに照らすと、同人らの供述から、この電話機が使用されなかったと認めるにはいささか疑問があるところである。

(6) 小括

以上を総合していえることは、検察官があげる証拠によっては、検察官主張のような、「(検察官主張の)丁岡電話の時間帯に甲山学園回線が使用されたのはB電話のみである」と認めるには疑問があるといわざるを得ず、また、これらの証拠によって、電話の使用状況に関して何らかの事実が確定できるものでもなく、丁岡電話の時刻等に影響するものもない。

七  まとめ

以上のとおり、丙林電話までの管理棟事務室内における電話の順序に関して検察官の主張を裏付ける客観的事実及びそれに関連した事実のうち、証拠上認定できるのは、「乙谷及び沢崎が帰園したのは、午後七時三〇分ころであること」、「B電話は午後七時四〇分ころから数分間の電話であること」だけであり、「乙谷及び沢崎の帰園時刻は、より正確には午後七時二五分を中心とした時間帯の可能性が高いこと」、「丙谷電話及び丁沢電話の時刻は、いずれも午後七時三〇分ころ以降午後八時ころまでの間としか特定はできないこと」、「丁岡が西宮署に電話をした時刻は、西宮署における検房終了の一、二分後の午後七時五〇分ころから午後七時五五分ころまでの間になされたと考えられ、丁岡電話は数分間程度の電話であったと考えられるので、丁岡電話の開始時刻は、午後七時四〇分台の前半であった可能性が高いこと」、「B電話と丁岡電話が重畳している可能性が高いこと」についてはいずれもこれを認めることができず、かえって、丙谷電話及び丁沢電話については、いずれも正確な時刻を特定することはできないものの、丙谷電話は午後七時五〇分ころから午後八時ころまでの間であった可能性が、また、丁沢電話は午後八時ころであった可能性が、いずれも否定できず、また、第七で検討するように、検察官が客観的事実として主張する「丙林電話の終了時刻は遅くとも午後七時五〇数分である」との事実はこれを認めることができないのである。

以上を総合すると、結局、検察官が右電話の順序に関して客観的事実であるとして主張する「丙谷電話、丁沢電話、B電話、丁岡電話の順である」との事実を認めることはできないといわざるを得ない。

第七  丙林電話通話中の時刻に関して検察官が主張する客観的事実及びそれに対する判断

一  検察官の主張事実

丙林電話通話中の時刻に関して、検察官が、客観的事実であるとして主張する事実は、「丙林電話の終了時刻は遅くとも午後七時三〇数分であること」である。

二  右主張に対する判断

そこで、証拠により検察官が主張する右事実が認められるのか、以下、検討する。

1  丙林証言とその根拠

検察官が主張する「丙林電話の終了時刻は遅くとも午後七時五〇数分であること」との事実に関する主要な証拠は丙林電話の当事者である丙林の証言である。

すなわち、丙林は、「甲山学園に電話をした時刻は、午後七時四〇分から五〇分ぐらいの間で、通話時間は五分間ぐらいだったと思う。遅くとも午後八時までに電話をしたのは間違いない」旨証言し、その根拠として、<1>電話の前に腕時計で午後七時三〇分であったのを確認しているが、電話をしたのはそれから一〇分ぐらいたってからという記憶があること、<2>ありがとう運動事務所がある国際会館では保安係員が午後八時になるとシャッターを閉めるなどで見回りに来るが、まだいるのかという態度で回るので、自分も気を遣い、午後八時ころにはもう帰らなければならないという気持ちがあり、この時も午後八時ころまでには電話をしようという気持ちで電話を入れており、また、電話を終わってからもまだ一〇分ぐらい作業をするという余裕のある時間帯に電話を入れた記憶があること、<3>電話で午後八時四五分の待ち合わせの時刻を決めた際に腕時計を見たが、その時の感じでは、一時間程度あるんだなという感じを持ったことを記憶していることの三点をあげている。

2  丙林証言が一応信用できる状況にあること

丙林は、甲山学園及び被告人や沢崎らとの間で格別の利害関係を有する立場になく、その証言内容は、総じて詳細かつ具体的であり、それ自体には一応不自然、不合理な部分も見あたらず、丙林電話の時刻に関する証言内容も、それなりの具体的な根拠をあげるなど、一般的に信頼性のある形で供述されている。

しかも、丙林は、甲山学園へ電話をかけるまでの間時間を気にしていたというのであり、実際には午後八時以降に電話を入れたのに、午後八時以前の時刻に電話をしたと勘違いするような特段の事情があったとも考えにくいところである。

さらに、「電話で話した際、待ち合わせ時刻までにまだ一時間ほど時間的な余裕があるという感じを持ったことを今でも記憶している」旨強調しているところ、待ち合わせまでの時間が(被告人が供述するように)実際は三〇分程度でしかなかったのに、その倍にもあたる一時間ほどあると思い違いをすることはまずあり得ないことである。

そのうえ、事務所を出てからの行動についての丙林証言をみると、「神戸新聞会館には五分ぐらいで行ったが、待ち合わせ時刻まで時間があったので、時間つぶしをするために同会館九階のKCCギャラリーに行った。待ち合わせ時刻を気にしていたので、展示品を見ながら数回腕時計を確認していたが、腕時計が八時四〇分になったので、エレベーターで下に降りて被告人を待ったところ、二、三分ぐらいしてからではないかと思うが被告人が車でやってきた」というものであり、その経過は自然かつ合理的なものである。

これらに照らすと、丙林証言は一応信用するに足りる状況があるということができる。

3  丙林証言の信用性についての疑問

しかしながら、丙林証言については、以下にみるような信用性に疑いを抱かざるを得ない点が指摘できるのであり、そのまま信用することができない。

(一) 丙林証言による根拠の<1>に関して

丙林は、午後五時四〇分から五〇分ころにありがとう運動事務所に行き、そこから甲山学園に電話をしたこと、相手方である乙谷が不在であったため、乙谷から電話がかかってくるのを作業をしながら待ち、その際腕時計を何回か見たこと、午後七時三〇分を確認してから大体一〇分くらい経って電話をした記憶があること、午後七時半に時計を見たという特別の根拠はないが、半という区切りのいい時間であったことは覚えていることを証言しており、一見したところ不自然さはみられない。

しかしながら、戊野五郎の49・4・14検面(当審検一二八)によれば、ありがとう運動の責任者である戊野五郎は、気をもんで電話を待っている丙林に対しこちらから電話をしてみたらと勧めた旨供述しており、丙林も戊野五郎かどうかはっきりしないが、電話をしてみたらどうかといわれて電話をかけたことを認める証言をしているのであって、「一応自分たちが帰る時間帯までは乙谷から電話がかかってくるのを待ってみようという気持ちであった」旨の丙林証言に照らし合わせると、丙林は乙谷からの電話を待っていたが、戊野らが帰る時間になり、戊野五郎から勧められて丙林電話をかけたと考えるのが自然である。そうすると、丙林は、自分の時間感覚から電話をしなければならないと思ってかけたのではなく、また、丙林電話をかけた際は腕時計を見るなどして確認していないのであり、右の大体一〇分くらい経ってからというのも感覚的なものにすぎず、その間作業をしていたというのであるから、その時間感覚の正確性には疑問があるといわざるを得ず、結局は、根拠の<1>は右主張の根拠とするには疑問がある。

(二) 丙林証言による根拠の<2>に関して

(1) 丙林の供述の変遷とその意味

丙林は「保安係が午後八時になるとシャッターを閉めるなどで見回りに来るが、まだいるのかという態度で回るので、自分も気を遣い、午後八時ころにはもう帰らなければならないという気持ちがあった」旨証言する。

しかしながら、丙林証言によれば、丙林が右証言のように午後八時ころに帰る理由として保安係員の巡回のことを供述しだしたのは、昭和五二年当時の事情聴取が最初であり、昭和四九年当時は、午後八時に国際会館の表シャッターが閉まるのでそれまでに帰らなければならないと思っており、当日も表シャッターが閉まるまでに戊野五郎と連れだって帰った旨の供述をしていたことがうかがわれるのであり、この点について丙林の供述には変遷がみられる。

そして、丁沼六郎証言、戊野五郎証言等によれば、保安係員は、表出入口のシャッターを午後八時に閉めていたが、南側出入口のシャッターを閉めるのは午後九時であり、表出入口のシャッターが閉められても南側出入口を通って地下街に出ることができたこと、ありがとう運動事務所のある通路のシャッター(北側シャッター)は午後八時ころに閉めるが、人が残っている場合には閉めないでおき、その後の見回りや南側シャッターを閉める際に閉めていたこと、南側シャッターが閉められる午後九時以降であっても、東側出入口から外に出られることが認められるのであって、これらの事実によれば、表シャッターが閉められてもありがとう運動事務所から外に出ることには支障はないのであり、丙林が昭和四九年当時において午後八時に表シャッターが閉まるので帰らなければならないという理由からそれまでに電話をしたことや表シャッターが閉まるまでに帰った旨の供述をしたことがうかがわれるということは、誤った前提によって誤った記憶を持った可能性があるといわざるを得ず、また、その後午後八時までに帰らなくてもよいという事実が判明したため保安係員の巡回という別個の理由付けをした可能性を否定できないのである。

この点について、検察官は、「シャッターの閉鎖も保安係員の巡回に際して行われる旨丙林が理解していたと認められることに照らすと、シャッター閉鎖への配慮と保安係員巡回への気遣いとは、異質の事柄ではなく、むしろ相通じるものであり、さして大きな変遷とはいえない」旨主張する。

確かに、表シャッターの閉鎖も保安係員の巡回も内容として異質とはいえず、いずれも午後八時ころのことであり、右変遷はさして大きなものとはいえない面があることは否定できない。しかしながら、表シャッターが閉まるので午後八時には帰らなければならないというのと保安係員に対する気遣いとはその意味するところが異なっていることは明らかであって、しかも、それが、電話をするという行動の理由付けとなり、また、昭和四九年当時においては表シャッターの閉まるまでに帰った旨の供述をしていることがうかがわれるのであり、後に検討する保安係員の巡回に対する気遣いに関する判断にも照らすと、この変遷はやはり看過できないといわざるを得ない。

(2) 出入口のシャッターを閉める時刻等についての関係者の供述とその検討

国際会館保安係員の丁沼六郎は、「ありがとう運動事務所前のシャッターは午後八時に閉めに行くが、この時事務所の人が残っていれば、閉めないで、早く帰ってもらうように一応声をかけていた。シャッターを閉めると国際会館北側は、建築工事中の時は工事現場になっていて事実上帰る道がなくなってしまう。ありがとう運動事務所の人は外で仕事をしていることが多く、その場合は声をかけていた。事務所の人が事務所内にいる場合は、事務所のドアを開けることはしなかったが、声をかけないことには来たことにならないので、ほとんど声をかけている。そして、その後、午後九時に、あるいは時間があれば適宜にまた閉めに行っていた」旨証言(丁沼六郎証言)をし、また、同保安係員の丙島七郎は、「昭和四九年三月当時、国際会館北側はビル工事をしており、工事関係者以外は通れない状態になっていたので、ありがとう運動事務所の前のシャッターを閉めてしまうと、ありがとう運動事務所の人は外に出られなくなる。右シャッターは午後八時に閉めるのを原則としている。シャッターを閉めに行った時、店舗に客がいる時や仕事をしている時にはテナントに『あとどのくらいかかりますか』、『まだですか』とか尋ねることにしていた」旨供述(同人の52・3・30検面当審検一三九、53・3・12検面当審検一四〇)している。これを総合すれば、国際会館保安係員がありがとう運動事務所の前のシャッターを午後八時に閉めることを日課としていたこと、保安係員が右シャッターを閉める場合はありがとう運動事務所について人が残っていないかを確認していたこと、人が残っている場合には声をかけていたことが認められる。

これに対して、戊野五郎は、「午後八時に事務所を閉めなければならないとは思っていなかった。その日の仕事の分量によって帰る時刻が違っており、午後八時を過ぎることも往々にあった。保安係員がありがとう運動事務所の前のシャッターを早い時期に閉めに来ていたことは分かるが、あまり気にしていなかった。遅くなる時に保安係員が事務所の方に声をかけてきたようなこともなかったと思う。家賃を払って入っているのであるから保安係員はそんなことは言わないと思う」旨証言(戊野五郎証言)する。このように、戊野五郎が、保安係員がシャッターを閉める午後八時をあまり気にしていなかったことは、丁沼六郎証言でもありがとう運動の人が残っていたことが三分の一位あった旨証言していること、丙林も、「帰る段取りは仕事の分量で決まり、普通は戊野五郎に言われて帰ることになる。戊野五郎から午後八時までに仕事を終えて帰るように言われてはいない。帰る時間帯が多いのは午後八時前後であるが、午後八時以降に帰ることも一〇回のうち三、四回あった」旨証言していることからもうかがわれるところである。

この点について、検察官は、「戊野五郎は、国賠訴訟においては、早く帰らなければいけないという意識はしていないが守衛さんにあまり迷惑をかけたらいかんとは思っている旨証言しているのであり、このことは、同人自身保安係員にとって迷惑であるとの認識を有していたことを示すものである」旨主張する。しかしながら、戊野五郎国賠証言によれば、その意味するところは、そのことによって午後八時までに帰るようにしていたということではなく、遅くなれば挨拶をして帰るとかシャッターをきちんと閉めるという程度のものにしかすぎないのであって、検察官の右主張のようにはいえない。また、検察官は、丁沼六郎証言の「何か事故があったら保安係の責任になってくるので追い立てていた」旨の部分を指摘するが、丁沼六郎は、一方では「世間話をするようなつもりで声をかけていた。あまり追い立てるような言い方はしていない」とも証言しているのであり、右検察官の指摘は正確とはいえない。さらに、戊野五郎は、49・4・14検面においては「事務所は毎晩午後八時になれば閉めることになっているので、自分が、丙林に電話をしてみたらと言った」旨供述しているのであるが、右検面については後述のとおりそのまま信用することはできない。

以上みてきたように、ありがとう運動の責任者である戊野五郎は、午後八時という時間をあまり気にせず、そのときの仕事の分量に応じて帰る時刻を決めていたのであり、単なるボランティアの一員であった丙林が右戊野以上に保安係員のことを気にかけていたというのは不自然であり、ましてや、そのことを電話をかける理由の一つとしてあげていることは、前記供述が変遷していることにも照らすと、不自然といわざるを得ない。

(3) 戊野五郎の49・4・14検面の記載とその検討

戊野五郎は、捜査時においては、「丙林は自分らと一緒に仕事を手伝いながら乙谷からの電話を待っていたが、一向に電話はかかって来ず、事務所は毎晩午後八時になれば閉めることになっているので、自分が、丙林に電話をしてみたらと言ったところ、丙林もその気になって、甲山学園に電話を入れた。その時刻は、自分らが午後八時ころに事務所を出る一〇分か一五分位前であったから、午後七時四五分前後ごろと思う。前後ごろといっても、五分位の時間の前後位のように思う。このあと、丙林らと事務所を整理し、午後八時前後に事務所を閉め、国際会館の地下からさんちかへ降りた。丙林とは、途中のUCCコーヒー店の西側で別れたが、別れた時間は午後八時五分から一〇分までの間である。別れる時、私は丙林の待ち合わせ時刻である午後八時四五分まではかなり時間があるなあと感じたことを覚えている。丙林が甲山学園に電話をしたのが、午後八時一五分位ということは絶対にない。丙林が甲山学園に電話をして、その後自分が丙林と別れるまでに要している時間は二〇分から二五分はかかってるので、もし丙林が午後八時一五分ごろに電話をしたとすれば、丙林と別れた時間は午後八時三五分か四〇分ぐらいになるはずで、待ち合わせ時刻まで五分か一〇分しか余裕がないことになり、それなら、おそらく丙林も急がれたでしょうし、私もずいぶん時間があるというような感じは持たなかったはずである」旨、当日の状況について具体的行動をまじえながら供述(49・4・14検面)している。

右49・4・14検面について、戊野五郎は、「丙林が甲山学園に電話した時刻、事務所を丙林らと出た時刻、丙林と別れた時刻などについては、警察の取調べの際には覚えていなかったと思う。電話の時刻が何時であったかは当時記憶があったわけではない。当時、時刻の点が重要な問題になっているという認識はなかった。おおざっぱな性格なので、正確に書かれていなくても一々言わないし、早くサインして捜査官に帰ってもらったらいいと思うくらいであった」旨証言(戊野五郎証言)し、また、「昭和四九年四月三日の調べの時点で、電話の時刻が何時何分ころと言えるはずがない。それが重大で何時何分を争うものとは思わないし、これでいいかと言われれば、忙しいし、大きな間違いがなければサインする」旨証言(戊野五郎国賠証言)している。

検討するに、右49・4・14検面は事件後一か月も経たない時期の供述であり、内容もある程度具体的であることに照らすと、右戊野五郎証言及び戊野五郎国賠証言をそのまま信用することはできないものの、そもそも戊野五郎が事情聴取を受けた事項は、自分自身の行動というよりも丙林の行動に関するものが中心であり、それも丙林が電話をかけた時刻や事務所を出た時刻という記憶に残って当然とはいえないものであって、その出来事から約一か月後に事情聴取を受けたものであり、その当時覚えていなかった旨の戊野五郎の証言はむしろ自然であるというべきである。そして、右49・4・14検面においては、「午後八時になれば事務所を閉めることになっている」という戊野五郎の認識と異なる事実を前提にして供述がなされているのであり、この点からも戊野五郎の証言を一概に排斥できないのである。

したがって、右49・4・14検面に従って時刻を特定することには疑問があるといわざるを得ない。

(4) 丙林電話終了後の作業時間についての丙林証言の信用性

さらに、丙林は、「電話を終わってからもまだ一〇分ぐらい作業をするという余裕のある時間帯に電話を入れた」旨証言するが、丙林証言によれば、丙林は、昭和四九年四月当時には丙林電話終了後何分ぐらいして事務所を出発したか詳しく覚えていない旨供述していたことがうかがわれるのであり、丙林が当日行った作業の内容を明らかにできないでいることにも照らすと、電話を終わってからもまだ一〇分ぐらい作業をするという余裕のある時間帯に電話を入れた旨の右証言については、その正確性に疑問があるといわざるを得ない。

検察官は、「丙林証言は要するに電話後少し作業をしてから退出した、今思うと作業時間は一〇分ぐらいであったというものであり、同人が昭和四九年四月当時でも電話をしてから事務をちょっとした旨供述していたとうかがわれることとも矛盾はなく、電話後すぐには帰らずしばらく作業をしたという点では供述は一貫しているといえる」旨主張する。確かに、丙林は電話後も作業をしたことは一貫して供述していることがうかがわれる。しかしながら、作業時間は一〇分ぐらいであったというその時間が問題になっているのであり、その正確性に疑問があることには変わりはない。

(三) 丙林証言による根拠の<3>に関して

(1) 丙林は、「電話で待ち合わせの時刻を決めた際、ちらっと自分の腕時計を見た」旨証言する。

しかしながら、丙林証言によれば、丙林は、昭和四九年四月当時において、「八時四五分ごろになるという時間を知らせてくれた。私はこのとき、待ち時間が何分あるか時計でも見ていれば時間が詳しくわかるが、そのとき時計をみていない」という趣旨の供述をしていたことがうかがわれるのであり、右丙林証言と異なっている。そして、この点について、丙林は、「なぜそういうふうなことを言ったのかは分からない」というだけで、食い違いの理由の説明ができないのである。

この点について、検察官は、「証言内容の時計を見たというのも、ちらっと見ただけで、結局は、時刻あるいは時間を特定できないものであり、この食い違いはさほど大きなものではない」旨主張するが、丙林はちらっとではあるが時計を見たことでまだ一時間程度時間があるという感じをもったことを証言しているのであり、この食い違いは看過できるようなものではない。

(2) そして、丙林は、その際、「まだ一時間程度あるんだなという感じを持った」旨証言するが、一方では「早く来るんだなと思った」旨も証言しており、また、丙林証言によれば、丙林は、昭和四九年当時においては、「ずいぶん早く三宮へ来るんやなと思っただけ」と供述したことがうかがわれるのであり、そこには食い違いがみられるのである。すなわち、丙林は、丙林証言によれば、三宮から学園までの所要時間を電車やバスを利用して一時間位と思っていたというのであるから、「まだ一時間程度ある」との感じと「早く来る」(昭和四九年当時においては「ずいぶん早く来る」)と思ったというのは矛盾した感覚といわざるを得ない。

この点について、丙林は、「(所要時間が)一時間というのは一時間ちょっと超えるという意味も入っている」旨証言し、検察官は、「丙林は、待ち合わせの時間を設定したとき、まだ一時間程度時間があるなという感じをもった旨証言しているのであり、これは丙林自身が待ち合わせ時間までまだ余裕があるという感じを証言しているとみるのが素直であり、もう一つの早く来るんだなという感じを証言しているのは、被告人が待ち合わせ場所に来ることについての感覚を証言しているものであり、一時間以上かかると思われるのに被告人がそれより早く来れるとの感じを抱いたとの理解が一応できる。したがって、これをもって看過しがたい矛盾があるということはできない」旨主張する。

しかしながら、所要時間を一時間「位」と思っていたことを一時間「ちょっと超える」という意味も入っているとしたうえ、まだ一時間「程度」の時間があるとの感覚を持ちながら、元々一時間「以上」かかるのに被告人がそれより「早く来る(来れる)」と思ったというのはあまりにも技巧的説明といわざるを得ず、加えて、捜査段階に供述していることがうかがわれる「ずいぶん」早く来るとの思いとの矛盾は解消できないのである。

(3) さらに、丙林は、「電話のやりとりの中で被告人が車で来るという話があった」旨証言する。被告人が車で来るとすれば「一時間位」あるというのと「ずいぶん早く来る」ということの間の矛盾は一層大きくなる。

この点について、丙林は、「右の(ずいぶん早く来るとの)感覚を持ったのは(電話の中で車で来るという話をする前の)瞬間的なことであり、そのときは、被告人が電車やバスを利用してくるという感覚を一瞬持った」旨証言するのであるが、そうであれば、昭和四九年当時において供述したのは、電話の際の「一瞬持った」感覚だけということになり、それ以外の感覚、例えば電話をかけ終った後とかに持った感覚などが供述されていない点において不自然さは免れないというべきである。しかも、右丙林の「電話のやりとりの中で被告人が車で来るという話があった」旨の証言については、丙林証言によれば、丙林は、昭和四九年四月当時においては「ところが、被告人は来てみれば乗用車であった」旨の供述をしていることがうかがわれ、食い違いがみられるのである。

この点について、検察官は、「右記載からは被告人が車で来ることを事前に知らなかった趣旨にはみえるものの、それ以上に、具体的に被告人が車で来ることを事前に知っていたのかどうかについてふれた記載はないことがうかがわれるのであるから、右の点をもって供述に変遷があるとしてその供述の信用性を否定することにはちゅうちょせざるを得ない」旨主張するのであるが、捜査段階にしたとうかがわれる右供述が被告人が車で来ることを知らなかったことを示すものであることは明らかである。

(4) したがって、自分の時計を見て一時間程度あるという感じを持ったという理由付けは、当初からの記憶に基づくものというには疑問があり、時刻確定の根拠としての価値は存しないといわざるを得ない。

(四) 丙林証言をそのまま信用することはちゅうちょされること

丙林証言にあらわれた丙林の捜査段階での供述内容あるいはその間の齟齬に照らすと、丙林証言をそのまま信用することにはちゅうちょせざるを得ない。

(1) すなわち、例えば、丙林は、第一回目の電話をかけた時刻について、「午後五時四〇分から五〇分ごろ」と証言しているが、昭和四九年当時では「午後六時半ごろ」とか「警察官に午後五時半から六時の間に電話をしたといったが、あとで電話の内容など、いろいろ考えて思い違いであることがわかった」と供述していたことがうかがわれるのである。

この点について、丙林は、昭和四九年当時そのような供述をした記憶もないし、現在の記憶と異なる供述をした理由もわからないと証言するだけである。

(2) また、待ち合せの時間と場所の取り決めをしたのが誰とかについて、丙林は、「記憶がない」旨証言するが、昭和四九年当時では被告人が電話口に出たという供述はなかったのが、昭和五〇年になって被告人とも取り決めの話をしたように思うと述べ、それ以降は被告人とのやりとりについて詳しく供述していることがうかがわれるのである。

昭和四九年当時では供述しなかったことをその後詳細に供述するようになり、それが証言では記憶がなくなっているという経過は、不自然であり、丙林の記憶についての疑問を抱かせるものである。

(3) さらに、前記のとおり、「時計を見た」のかどうかについての食い違い、「被告人が車で来るという話があった」のかどうかの食い違いがみられるのであり、時計を見たのではないかという推測からの記憶の固定化、実際に被告人が車で来たことの影響による記憶の変容の疑いが払拭できないのである。

このような点についても、丙林証言では何ら説明ができていないのであり、丙林の記憶の正確さには疑問を抱かざるをえず、丙林証言の信用性にも疑問があるといわざるを得ない。

4  神戸新聞会館までの走行実験結果について

(一) 49・3・26捜復(検五一一)、49・6・12捜復(検六六六)によれば、捜査段階において、三回にわたり、被告人所有車両を被告人が運転して甲山学園から神戸新聞会館までの走行実験が行われ、その所要時間が測定されている。その結果は、甲山学園正門前から神戸新聞会館までの所要時間について、一回目(三月二六日実施)は四〇分、二回目(六月七日実施)は三三分、三回目(同月一一日実施)は三三分というものであった。

一回目の走行実験は、捜査官である小島直臣の一存で急きょ行われたものであり、その時間帯も午後一時すぎから二時すぎという昼間であったこと、当日は午前中に交通ストライキがあったこと、わずかの区間ではあるが一部道路が工事中であったため実際とは異なる経路で走行したことなど、事件当日とは異なる状況にあったのであり、右49・3・26捜復に被告人が事件当日と交通量はあまりかわらないと供述したこと、一部実際とは異なる経路で走行したが時間的にはかわりがない旨の記載があることやその際同乗した小島直臣が実験時には右ストライキが解除されて車の通行量は通常の場合と変わらない状態であった旨証言していることを考慮に入れても、その正確性には問題がある。これに対して、二、三回目の走行実験は、検察官が所要時間を測定する目的で行ったものであり、その時間帯も事件当夜と同じころの午後八時ころからであって、しかも、日をかえて二回にわたって行われたが、その所要時間は全く同じであったのであり、その信用性は高いといわざるを得ない。

確かに、右走行実験は、実験とはいうものの、通常とは異なり諸条件を全く同一にして行われたものではなく、また、その時の運転方法、交通量、道路状況等により所要時間には相当程度の差異が生じることは当然のことといわなければならないのであり、その実験によって得られた時間というのは、一応の目安にはなるものの、それが客観的に正確なものとはいい得ない面があることは否定できない。しかしながら、そのような面が否定できないとしても、検察官が同乗して行った走行実験の結果が二回ともそれも三日の間をおいて行っても同一結果であったということは、事件当夜も右結果とほとんど同じような走行時間であったとみるのが自然である。

(二) そうすると、被告人の神戸新聞会館への到着時刻が分かれば被告人の甲山学園出発の時刻がおおよそではあるが推測できることになる。

(1) 被告人は、「神戸新聞会館に到着したときに時計を見ると八時五〇分であり、約束の八時四五分より五分遅れですんだとの思いをもった」旨供述する。これに対し、丙林は、「神戸新聞会館九階にあるKCCギャラリーで時間をつぶし、自分の腕時計で午後八時四〇分を確認してエレベーターで一階に降りて正面玄関に行った。ギャラリーから正面玄関までは一分少々かかった。玄関に行って二、三分して被告人が来た。被告人が遅れてきたという感じは持ったことはない」旨証言し、右丙林証言によれば、被告人が神戸新聞会館に到着したのは午後八時四三、四分ころということになり、被告人の供述と食い違っている。

被告人は、既に三月二二日ころに「丙林と会ったのは約束より二、三分遅れたとの記憶があり、午後八時五〇分ころであったと思う」旨供述(49・6・17捜復検五一三)しており、また、時計を見て確認したとも供述しているのであるから、信用性が高いといえる面があるが、被告人の右供述を直接裏付けるものはなく、また、右捜復によれば午後八時四七分ないし四八分の可能性もあり右の時計を確認して見たというのと捜復の内容とは必ずしも一致しない面があるのであって、「被告人が遅れてきたという感じは持ったことはない」旨の丙林証言と食い違っていることに照らすと、被告人の供述によって被告人の神戸新聞会館到着時刻を認定することにはちゅうちょせざるを得ない。

一方、丙林は、時間を確認したのは午後八時四〇分が最後であり、それ以降の時間については感覚的なものにすぎないのであり、しかも、被告人が来た際に時計で確認していないのであるから、丙林証言によって被告人の神戸新聞会館到着時刻を認定することにもちゅうちょせざるを得ない。

(2) 右のように、被告人の神戸新聞会館到着時刻を画一的に特定することはできないのであり、午後八時四三ないし四四分あるいは午後八時五〇分ころの可能性があるというしかないのである。

そして、被告人の甲山学園(正門)出発時刻は、丙林証言の時刻によれば午後八時一〇分ないし一一分ころであり、被告人の供述する時刻によれば午後八時一七分ころになる。

被告人は、国賠訴訟において、「丙林電話の終了後、着替えをしたか否かの記憶はないが、それまでは作業服を着ていたようなので、着替えをしたのかなという気持ちはあるが、とちらにしてもすぐ出て行った」旨を証言し、53・3・11検面(検三〇七)では、「丙林電話後乙谷からY子の写真を受け取り、管理棟医務室で着替えをしたと思うが、それから管理棟事務室内を通って外に出て、正門前に止めていた車で出発した。丙林電話の途中で自分の腕時計を見てから二ないし三分ぐらいで出発したのではないかと思う」旨供述し、乙谷も、国賠訴訟において、「丙林電話の後、被告人は、かなりすぐ出て行った」旨証言しているのであって、丙林電話終了後さほど時間をおかずに被告人が出発したということができる。

(三) したがって、被告人の神戸新聞会館への到着時刻からみると、丙林証言の「丙林電話は午後七時四〇分から五〇分くらいにかけた。通話時間は五分程度と思う」旨の丙林電話の時刻との間に齟齬があるのであって、このことは、丙林証言についての疑問を抱かせるものである。

三  小括

以上を総合すると、検察官が丙林電話通話中の時刻に関して客観的事実であるとして主張する「丙林電話の終了時刻は遅くとも午後七時五〇数分である」との事実については、その主要な証拠である丙林証言が、その信用性に疑いを抱かざるを得ない点があって直ちに信用できないのであるから、証拠上認めることができない。

第八  被告人の偽証の犯意について

一  検察官の主張

検察官は、被告人に偽証の犯意が存していたことを示す事実として、<1>被告人の国賠証言内容が客観的事実に反すること、<2>国賠証言に至るまでの間の乙谷らとともに行っていた沢崎に対する支援活動状況及び国賠証言に至るまでの供述変遷状況をあげ、また、<3>被告人の捜査時の自白は信用性がある旨主張するので、以下、順次判断する。

二  検察官の「被告人の国賠証言内容は客観的事実に反する」との主張事実について

1  本件において、被告人が国賠証言において偽証したとされる証言内容は、前記のとおり、一つは電話の順序に関するものであって、その内容は「まずB電話があり、次いで丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話があった」というものであり、もう一つは丙林電話の時刻に関するものであって、その内容は「丙林電話において乙谷が通話中、同人から時刻を聞かれて被告人の腕時計を見たが、その時刻は八時一五分であった」というものである。

そして、検察官は、右電話の順序に関して、客観的事実は「丙谷電話、丁沢電話、B電話、丁岡電話の順である」旨主張し、その具体的な事実(もともとは弁護人の主張に対する反論としての事実も含めて)として、「乙谷及び沢崎が帰園したのは、午後七時三〇分ころであり、より正確には午後七時二五分を中心とした時間帯の可能性が高いこと」、「丙谷電話及び丁沢電話の時刻は、いずれも午後七時三〇分ころ以降午後八時ころまでの間としか特定はできないこと」、「丁岡が西宮署に電話をした時刻は、西宮署における検房終了の一、二分後の午後七時五〇分ころから午後七時五五分ころまでの間になされたと考えられ、丁岡電話は数分間程度の電話であったと考えられるので、丁岡電話の開始時刻は、午後七時四〇分台の前半であった可能性が高いこと」、「B電話は午後七時四〇分ころから数分間の電話であること」、「右B電話と丁岡電話の時刻からすれば、B電話と丁岡電話が重畳している可能性が高いこと」をあげる。また、右丙林電話の時刻に関して、客観的事実は「丙林電話の終了時刻は遅くとも午後七時五〇数分である」旨主張する。

2  検察官が主張する右の「客観的事実」というのは、本件各証拠によって認定できる事実をさしているのであるが、前記第六及び第七で検討したことから明らかなように、右事実というのはそのほとんどが時刻に関するものであり、しかも、右事実認定に用いた証拠は、その大部分が供述証拠であり、いわゆる客観的証拠はほとんどなく、しかも、その供述証拠それ自体に変遷があったり、それと矛盾する他の供述証拠あるうえその供述自体にも変遷があるというものであり、それらの比較検討を行いその信用性を評価するといった微妙な判断を経たうえで認定される事実である。証拠によって認定される事実を明らかにしたうえ、その事実と証言との食い違いがあることを、偽証の犯意を推認する一つの間接事実とする手法自体に問題はなく、その認定事実が客観的で確実であればあるほど、その推認は強く働くものである。しかしながら、本件においては、時刻に関して右のような微妙な判断を経て認定される事実なのであり、その客観性、確実性の程度が高いとはいいがたく、それを検察官主張のような「客観的事実」と評価して被告人の犯意を推認することには、いささか慎重にならざるを得ない。

3  しかも、前記のとおり、検察官主張の事実のほとんどはそのまま認定できないのであり、検察官の主張によっても、被告人の国賠証言内容は客観的事実に反するということはできない。

すなわち、第六のとおり、右電話の順序に関して検察官が主張する具体的な事実のうち、証拠上認定できるのは「乙谷及び沢崎が帰園したのは、午後七時三〇分ころであること」、「B電話は午後七時四〇分ころから数分間の電話であること」だけであり、「乙谷及び沢崎の帰園時刻は、より正確には午後七時二五分を中心とした時間帯の可能性が高いこと」、「丙谷電話及び丁沢電話の時刻は、いずれも午後七時三〇分ころ以降午後八時ころまでの間としか特定はできないこと」、「丁岡が西宮署に電話をした時刻は、西宮署における検房終了の一、二分後の午後七時五〇分ころから午後七時五五分ころまでの間になされたと考えられ、丁岡電話は数分間程度の電話であったと考えられるので、丁岡電話の開始時刻は、午後七時四〇分台の前半であった可能性が高いこと」、「B電話と丁岡電話が重畳している可能性が高いこと」についてはいずれも認めることができず、丙谷電話及び丁沢電話については、いずれも正確な時刻を特定することはできないものの、丙谷電話は午後七時五〇分ころから午後八時ころまでの間であった可能性が、また、丁沢電話は午後八時ころであった可能性が、いずれも否定できないのである。以上によれば、検察官が右電話の順序に関して客観的事実として主張する「丙谷電話、丁沢電話、B電話、丁岡電話の順である」との事実を認めることはできない。

また、第七のとおり、右丙林電話の時刻に関しては、検察官が客観的事実と主張する「丙林電話の終了時刻は遅くとも午後七時五〇数分であること」との事実を認めることはできない。

4  したがって、「被告人の国賠証言内容は客観的事実に反する」との検察官の主張は理由がないといわざるを得ない。そして、このことは、被告人の偽証の犯意を否定する方向に働くものである。

三  被告人の国賠証言及び捜査時の供述の変遷状況

1  検察官の主張

検察官は、被告人の国賠証言及び捜査時の供述の変遷状況をあげ、被告人の供述は乙谷の主張内容に合致する方向で不自然な変遷を重ねている旨主張する。

2  管理棟事務室における電話順序に関する供述

(一) 管理棟事務室における電話順序に関する被告人の捜査当初の供述内容をみると、49・3・26捜復(検五二〇)では、管理棟事務室内での話の途中でB電話及び丙林電話があったことと、話した内容の中で丁沢電話と丁岡電話の記載があるが、電話の順序については明らかではない。そして、49・3・28捜復(検五二二)では、B電話があったのは丁沢電話の後だと思う旨と、そのように思った理由について、「大阪放送の偉い人に協力を依頼した直後であったので、その返事ではないかと思い、乙谷が受話器を取ったものと思う。それでなかったら、普通事務室にかかった電話は自分がとるので、そのように思う」旨記載されている。

しかしながら、被告人は、その後の供述調書ではその前後関係が記憶にない旨を供述している。すなわち、49・4・23員面(検二八七)では、B電話、丙林電話、丁沢電話、丁岡電話に触れているが、「その前後関係がはっきりしない」、「このようなことが入り乱れてあったため順序を正確に覚えない」旨の記載があり、49・4・28検面(検二八九)では、「あちこちから電話が入ったり、こちらから電話をしているが、前後関係は覚えていない」旨の記載がある。

(二) ところが、被告人は、国賠訴訟においては、電話順序について「B電話、丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話、丙林電話」である旨を証言するに至っている。

(三) 一方、乙谷の供述内容をみると、49・3・23捜復(当審弁二三五)では、丙林電話があったことの記載しかなく、49・3・28捜復(当審弁二三六)では、「丁沢電話、丙林電話、J電話(園児Jの父丁石九郎が甲山学園にかけた電話、以下「J電話」という)、B電話」の順にその出来事が記載されている。ところが、49・4・1巡面(当審検一八)では、右電話順序を「B電話、丁沢電話、丁岡電話、丙林電話」と供述し、49・6・24検面(検一四七)では、「B電話、丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話、丙林電話」と供述し、以後、右供述を維持している。

3  丙林電話の時刻(被告人の学園出発時刻も含め)に関する供述

(一) 丙林電話の時刻(被告人の学園出発時刻も含め)に関する被告人の捜査官に対する供述内容をみると、49・6・17捜復(検五一三。事情聴取日は三月二二日)では「出発した時間について、私の時計で確認したわけではないが、丙林と午後八時四五分に約束したことや私の記憶からして、午後八時を少しすぎたころとの記憶があり、午後七時台でもないし、午後八時を一〇分も二〇分も過ぎたころとの記憶がないので、たぶん午後八時五分ころであったと思う」との記載があり、49・3・26捜復(検五一一)では、被告人が自己所有車両を運転して走行経路と所要時間を測定した際のこととして、「被告人は、香雪記念病院入口付近路上にさしかかったとき、『当時このところに道路工事のため工事信号があって、停止信号により停車したが、このとき車内で腕時計を見たら午後八時一五分をさしていた』と供述した」旨の記載があり、49・3・26捜復(検五二〇)では、丙林電話で午後八時四五分に会う約束をしたことと、出発した時刻として「自動車で再現したところ四〇分間かかるので、それから逆算してほぼ一〇分前後と思料される」旨の記載がある。

そして、49・4・23員面(検二八七)及び49・4・23捜復(検五一二)では、「私も乙谷も学園から三宮あたりまでの走行時間は大体四、五〇分ぐらいということは分かるので、そう無理な時間は約束していないので、この点から言うと、新聞会館に着いた時間から考え、午後八時過ぎに学園を出発したことになる。そして、どこで見た時間かはっきりしないが、学園を出発してから途中、私の腕時計を見ると八時一五分であったことを記憶するのと、書いたときに八時五〇分と時計がさしていたことが記憶にある」との記載があり、この「学園を出発してから途中、私の腕時計を見ると午後八時一五分であったことを記憶する」というのは「前に香雪記念病院付近で腕時計を見たら八時一五分であったと言ったが、よく考えると、あの場所では車内が暗くて時計は見えないと思うので、あるいは国道二号に出てから見たかもしれない。しかし、はっきりしない」ということであった。

また、49・4・28検面(検二八九)では、「八時四五分というのは、その時刻で間に合うだろうかという感じがしたことを覚えている。このとき腕時計を見たが、八時を少し回っていたという程度の感じしか覚えていない。その約束ができてすぐに自分の車で園を出た。出発した時刻は、出発するときかしてからあとか、腕時計を見て八時一五分であった記憶はあるので、見た場所は事務室であったように思うので、八時一五分ころだったと思う。八時一五分の時計を見た場所は、事務室か車に乗り込んだときか、園から二、三分の香雪記念病院か、園から一〇分くらいの国道に出たときか、そのうちのどれかであり、私としては事務室で見たように思う。さらに、三月下旬のストの日の昼間に所要時間を計ったところ四〇分かかった、夜だと四〇分より短いと思うので、午後八時五〇分に着いたことも考え合わせると、大体午後八時一五分に出発したと考えるのが妥当と思う。(乙木の「午後八時間なしに若葉寮に戊田がいた」旨の供述を指摘され、出発は戊田が事務室を出る前の午後八時より前ではないかと尋ねられ)そのようなことを聞いてみて、私自身の記憶には絶対的自信があるわけではなく、したがって、出発時刻が午後八時一五分であることについては私自身現在は自信がぐらぐらしており確信は持てない」旨の記載がある。

(二) 他方、被告人は、捜査官における供述とは別に、職員や父兄等に対して次のような発言をしていたことがうかがわれ、そこには大きな変遷がみられる。

すなわち、まず、沢崎が逮捕されるまでの発言等をみると、乙原は、事件の翌日である三月二〇日、西宮署での事情聴取を終えて帰園する途中の車内において、被告人が「午後八時ころであれば神戸に行っていたため学園にはいなかった」旨述べたのを聞いていること(乙原証言)、戊谷は、三月下旬の職員会議のあとと思うが、被告人は「出発の時間を警察で尋ねられるけど、そんなことはいちいち覚えていない」旨述べたのを聞いていること(戊谷の53・3・17検面当審検一四八)、副園長の乙海三夫は、「三月までは、被告人が、午後八時ころまで学園にいたと言っていた。また、三月中に、被告人が、いろいろ事情聴取されるが時間(主として午後八時前後からの時間)については確かなことは分からないということは何度かもらしていたような気がする」旨を供述していること(乙海三夫証言)、被告人は、四月三日付で甲山福祉センター理事長あてに報告書(当審弁二一〇)を提出しているが、右報告書には、「午後八時すぎ乙野及び乙原がXの行方不明に気づき、青葉寮内を捜したがわからず、その後事務所にいた乙谷、戊田、沢崎(乙山は捜索準備のため神戸に行きました)も捜した」旨の記載があること、四月七日の保護者会において、被告人は「Xがいなくなったときは神戸に出ていて学園にいなかった。午後八時前に学園を出た」旨の発言をしたこと(戊原一江<旧姓戊山。以下「戊山」という>の52・5・17検面当審検二〇一、同53・3・20検面当審検二〇三、戊山証言)が認められる。

次に、沢崎が逮捕された後の発言等をみると、沢崎逮捕の翌日である四月八日の弁護士を交えた会議で、被告人は「午後八時一五分まで沢崎らと一緒に管理棟事務室にいたので、沢崎にはアリバイがある」(乙原証言、乙沼四江(旧姓乙林、以下「乙林」という)の53・3・7検面当審検一八六、ファイル当審検二四)、「最初のうちは時間がはっきりしなかったが、警察の人と神戸まで車を走らせて実験した結果、そこに行くまでの時間を逆算すると午後八時一五分に学園を出たことになる」(戊谷の53・3・17検面当審検一四八)旨発言したこと、その会議の後にも、被告人が職員に対し「午後八時過ぎまで乙谷、戊田、沢崎と一緒にいた」旨発言したこと(戊山証言、戊山の49・4・20検面当審検一九八)、四月九日、電話をかけてきた乙原に対し「沢崎と午後八時一五分までいたことは本当である」旨述べたこと(乙原証言)が認められる。

さらに、その後の被告人の発言内容をみると、四月一〇日、学園食堂での乙原夫婦との話し合いの場で、被告人は、「出発時刻は記憶にはないが、午後八時四五分に神戸で丙林と会う約束をしていてあまり待たせずに向こうに着いており、小島との走行実験の結果三〇分ほどかかったので、計算したら午後八時一五分に出発ということになる」旨述べたこと(乙原証言)、被告人は、五月一五日の会合の際に弁護士から言われてそのころ作成した「昭和四九年三月一九日の当時学園長であった乙山春夫の行動」と題する書面(以下「乙山春夫の行動」という。53・3・7検面検三〇二添付、ファイル当審検三三)には、学園を出発した時刻について「八時一五分」とし「(但し、場所と結びついていない)」と記載していることが認められる。

また、Xの実母である乙沢冬子は、「昭和五〇年八月初めころ、被告人が国賠訴訟で証人として出廷することを聞き、被告人に自宅に来てもらった。その時、被告人に『午後八時一五分まで一緒にいたのか本当のことを教えてください』と尋ねたところ、被告人は、『八時一五分の時計を見たという記憶はあるが、それが管理棟事務室で時計を見たのか、三宮へ行く途中で時計を見たのか分からない』と言った。『それだったら本当は分からないんでしょう』と聞くと、『原検事とか警察の方と走行実験したので、その時間が、逆算したら午後八時一五分にはいたことになるので、それで確信を得たから』と言った。『うそを言ったら偽証罪になるのではないか』と聞くと、『それはみんなが言っているし、検事とか警察の方が証明してくれたから』と言った」旨証言する(乙沢冬子証言)。

(三) ところが、被告人は、国賠訴訟においては、「丙林電話があり、乙谷が待ち合わせの場所と時間を決めた際、被告人の時計を見て午後八時一五分であったという記憶である」旨証言している。

(四) 一方、乙谷の供述内容をみると、49・3・23捜復(当審弁二三五)では、「午後八時ころ乙谷が丙林電話をした。午後八時一五分ころ被告人が神戸に行った」旨の記載があり、49・3・28捜復(当審弁二三六)には「被告人が午後八時一五分に出た」旨の記載がある。そして、49・4・1巡面では、「午後八時一〇分ころ丙林電話をした。時間と場所を打ち合わせるとき、被告人が腕時計を見ると八時一五分であったとのことで、その三〇分後の午後八時四五分と決め、被告人はすぐ車で出発した」旨の記載があり、以後、その供述をおおむね(丙林電話は丙林がかけてきた点を除く)維持している。

4  小括

以上みたように、被告人の供述内容には変遷があり、国賠訴訟における証言内容は右乙谷の供述内容と合致しているのである。検察官は、この点をとらえて「乙谷の主張内容に合致する方向での不自然な変遷」と主張するが、それを判断するためには、検察官も右主張において触れているように、乙谷及び被告人の支援活動状況や被告人が供述する右証言内容の記憶を喚起するに至った過程についての検討が不可欠であるので、以下の検討の際にあわせて判断する。

四  被告人及び乙谷の沢崎に対する支援活動状況

検察官は、「乙谷二夫が行った沢崎の支援活動は異常であり、被告人は、そのような乙谷に同調し、沢崎のアリバイを作出することを目的として活動したのであり、国賠証言において、沢崎のアリバイ主張を行うことが、被告人にとっての支援活動の最たるものであった」旨主張する。

1  検察官の「乙谷二夫の支援活動は異常である」旨の主張について

(一) 検察官の主張する乙谷の支援活動の具体的状況

検察官は、乙谷の支援活動について、<1>「乙谷は、沢崎の逮捕前に警察捜査及びこれに協力的な職員を批判し、甲山学園職員に対して警察への抗議行動を訴え、その賛同が得られないとみるや、取調べ拒否を沢崎と連名で通告するなど、その行動は異常である」、<2>「乙谷は、沢崎の逮捕時にはその阻止を計り、逮捕される沢崎に対して『死んでもしゃべるな』と叫んで供述をしないように指示し、同日、さらに、県警本部に逮捕拘束されている沢崎に対して『何もしゃべるな、ぜったいに』などと記載したメモを密かに差し入れ品の中に忍ばせて渡そうとするなど、支援活動としても極めて異常ともいえる行動に出ている」、<3>「乙谷は、沢崎が逮捕されるや直ちに沢崎のアリバイを主張したパンフレットを学園職員等に配付し、また、沢崎の自白を阻止するため、沢崎の勾留されている県警本部前でシュプレヒコールを繰り返すなど、その支援活動を極めて熱心に行っている」、<4>「乙谷は、沢崎の逮捕後に行っていた支援活動方法について、弁護人から注意、批判を受けるや、その解任を沢崎に働きかけるなどしており、乙谷の行っていた沢崎の支援活動の異常さがうかがわれる」、<5>「乙谷は、沢崎の釈放後も、沢崎のアリバイ作出に向けて被告人、戊田ら支援者らとの会合を開き、沢崎のアリバイを主張し合うことを確認し合っているものであり、その活動の異常さがうかがえる」、<6>「乙谷は、昭和四九年四月八日夜に開かれた職員会議では、乙谷のアリバイ主張内容に疑問を抱いた乙原が乙谷の主張と異なる発言をするや、その発言を制止して乙原の反論を押さえ込むなどしたほか、沢崎釈放後の同年五月五日には、乙谷のアリバイ主張に疑問を抱いていた青葉寮保母戊山一江らが、これを文書にして配付するや、脅迫的言辞を弄して同女を威嚇するなどし、自己のアリバイ主張に対する異論を封殺しているもので、その行動は異常である」旨指摘する。

(1) 右<1>に関して

ア 右<1>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、乙谷が、四月二日の職員会議の席上において、警察の取調べ方法が話題となった際、警察が職員のプライベートなことを聞くことをとらえてこれを批判し、乙原が「事件を考えれば聞かれても仕方がない」旨の発言をしたところ、これに対して「仲間を売るのか」などと述べて批判したこと(なお、その際、沢崎において、「私はかばっているのに壊す人がいる」旨述べて乙谷を擁護している)、四月三日には、警察に事情聴取拒否通告を行って捜査協力拒否の姿勢を明らかにしていることである。

イ 右事実があったことについては、関係各証拠によっておおむね認められるところである(なお、乙谷証言によれば、乙谷は、職員会議での右発言について記憶がない旨供述するが、沢崎がその際に自分が発言したことを認める趣旨の供述をしていることや乙原証言等に照らすと、右事実を認めることができる)。しかしながら、右事実に関する評価については、検察官が主張するような「その行動は異常である」とまでいうことはできない。

ウ すなわち、四月二日の職員会議の席上で右のような話題が出るに至った経緯をみると、証拠によれば、事件後、捜査官によって甲山学園職員に対する事情聴取が連日行われていたが、乙谷も含め職員らは当初から捜査に対してはおおむね協力的であったこと、しかしながら、捜査がすすむにつれて職員らから捜査に対する不満が出るようになってきたこと、その不満の内容は、事情聴取の時間が非常に長く、また、女性の生理日や思想的なことを聞かれるなどであったこと、そして、四月二日の職員会議でその点が話題になり、右のような警察の捜査に関しては、園長が口頭で警察に抗議することになったこと、その際、乙谷は書面で抗議することを主張したが、多くの者の賛同を得ることができなかったこと、また、右職員会議の場で、乙原から、職員の男女関係についてはっきりさせてほしい旨の発言があったり、前記のやりとりがあったりしたこと、被告人は、右話合いの結果を踏まえ、西宮署長に対し口頭で職員らの希望を伝え、しばらく職員の事情聴取を中止してもらいたい旨の申し入れを行ったこと、乙谷は、口頭での抗議では不十分と考え、乙谷の考えに賛同するであろう沢崎、乙島五男に働きかけ、三名連名で一切の捜査を拒否する旨の抗議文を西宮署あてに提出したことが認められる。

そして、右経緯に照らすと、右のような捜査の方法について疑問や不満を持つようになり、警察に抗議をしようとすることは何ら不自然なことではなく、右抗議を口頭で行うのか文書で行うのかについて意見が分かれ、結局文書で行うことができなかった乙谷が、その趣旨に賛同する者だけで抗議文を作成して提出し、その内容として一切の捜査に協力しないということも、その心情として理解できないことではなく、このことをもって、「異常」とまでいうには疑問がある。

また、職員の男女関係については、そのことを職員会議の席上で話題にすること自体がいたずらに職員間に男女関係が事件の動機であるとか職員が犯人であるとの疑念を抱かせるおそれのあるものであり、乙原の発言に対し、その話題の当事者となった乙谷が右のような発言をしたとしても、ことさらそれを取り上げて「異常な言動」というにはいささか疑問がある。

エ この点については、検察官は、「右のような捜査のやり方については、いずれも一切の捜査を拒否するような問題ではなく、また、取調べ時間についても園長等学園を通じて警察に申し入れるなどの方法があるのであり、学園の一職員にすぎない乙谷が主導して、他の職員に事情聴取拒否の態度をとらせようとした乙谷の言動は不自然であり、やや行き過ぎの感が否めない。また、職員の間では文書で警察に抗議文を出すことに賛成する者はほとんどいなかったのであり、結局、自己ないし沢崎への事情聴取を中止させようとしての抗議文であったことをうかがわせる」旨主張する。

しかしながら、右でみたように、事件後連日のように捜査官から事情聴取を受け、職員の間で右のような種々の不満が高じていたのであって、それを解決するためにどのような手段を講じるかという点において違いが生じているにすぎないものであり、それが抗議文であるとか内容が一切の捜査を拒否するということであるからといって、そのことを不自然であるとか異常であると強調するのは適切ではない。

また、乙谷については、その前日の四月一日に事情聴取をされて詳細な供述調書が既に作成されているのであり、そのころ沢崎に絞って嫌疑がかけられているとか事情聴取の予定が明らかになっているという状況にもなかったのであって、抗議文提出には乙島五男も賛成しており、提出のいきさつも、乙谷証言によれば、「抗議文の名義人になるように青葉寮の職員には働きかけてはいない。連名で出せるのは気の合う三人だと思ったから」というのであり、必ずしも不自然なものではないことからすれば、右乙谷の言動をもって、「自己ないし沢崎への事情聴取を中止させようとしたことをうかがわせる」ということはできない。

(2) 右<2>に関して

ア 右<2>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、一つは、沢崎の逮捕時において、乙谷が、沢崎の逮捕の阻止を計り、逮捕される沢崎に対して「死んでもしゃべるな」と叫んだことであり、もう一つは、同日、県警本部に逮捕拘束されている沢崎に対して「何もしゃべるな、ぜったいに」などと記載したメモを密かに差し入れ品の中に忍ばせて渡そうとしたことである。

イ まず、沢崎逮捕時(四月七日)のことについてみると、証拠によれば、当日は保護者会が開かれており、そのさなかでの出来事であったこと、沢崎が逮捕されることについては突然の出来事であったうえ、逮捕状の緊急執行として逮捕状の提示がないまま行われたため、職員らが警察官に抗議したりしたこと、沢崎が乗せられた警察の車に多くの職員や園児の父兄らが詰め寄り、車の進行を妨げたり、乗車している沢崎に対して種々の言葉がかけられ、いわば騒然とした状況になっていたことが認められる。そして、このような状況の中で、乙谷が沢崎に対して「死んでもしゃべるな」と叫んだことが認められるのである。乙谷は、乙谷証言において、「死んでもしゃべるなと言ったことはない。警察にうその自白をさせられるというおそれを抱いていたので、警察に聞かれてもしゃべるなという意味のことを言ったと思う」旨供述するが、その場で乙谷が「死んでもしゃべるな」と叫んでいたことを聞いた旨の戊山証言及び乙原証言や沢崎の供述、その後五月五日の保護者会において乙谷の右発言が問題になったがその発言をしたこと自体は誰も否定していないことに照らすと、右乙谷の供述は信用できず、乙谷が沢崎に対して「死んでもしゃべるな」と叫んだと認めることができる。

検察官は、沢崎逮捕時の乙谷の行動について、乙谷が「沢崎の逮捕の阻止を計った」として極めて異常である旨主張するが、沢崎の逮捕を阻止する行動をとったのは、乙谷だけではなく、その場にいた多数の職員や園児の父兄らも同様であったのであり、それがもっぱら乙谷の主導によるものであったということを認めるに足りる証拠はなく、乙谷の行動だけをことさら取り上げて「極めて異常」ということは相当ではない。

乙谷が沢崎に対して「死んでもしゃべるな」と叫んだことについてであるが、弁護人が主張するように、その言葉は、警察に聞かれても何もしゃべるなという意味であり、「死んでも」というのは「絶対に」ということであるととらえることもできなくはなく、その背景として、昭和四九年三月当時は、ベトナム反戦運動や種々の市民運動、学生運動などがいまだ盛んな時期であり、それらの活動で警察に逮捕された場合には黙秘をするという風潮がみられ、乙谷も、ベトナム反戦運動の市民グループである「ベトナムに平和を市民連合」(べ平連)の一員であったことでもあり、乙谷が、逮捕された沢崎に黙秘を勧めることは、それが反戦運動や学生運動でなくても不自然なことではないと一応いうことができ、そのことは、沢崎の弁護人となった弁護士ら(以下単に「弁護士」という場合はこの弁護士らをさす)も当初から沢崎に黙秘することを指示していたことからもうかがわれるところである。しかしながら、右の「死んでもしゃべるな」という言葉を右のように解釈することは可能であるとしても、後日職員からその言葉の意味が問題にされたように、やはり突出した言葉であったということは否定できないところであり、そのような言葉を乙谷が叫んだことについては、「異常」と評価されてもやむを得ないところである。

ウ つぎに、メモについてみると、証拠によれば、沢崎が逮捕された四月七日に、県警本部に逮捕拘束されている沢崎に対する差し入れ品の中に、「なにもしゃべるなぜったいに」とか「ガンバレ」などと職員が記載したメモが隠されていたこと、右メモの差し入れ品への混入状態は、裏側に黙秘の指示等を記載した右メモ紙でテイッシュ数個を巻き、それをさらに包装紙で包むというものであったこと、乙谷は、右メモのうち「たくさんの仲間が玄関のまえにいる、がんばれ、なにもしゃべるなぜったいに」との記載の字が乙谷のものであることや、差し入れに赴いた弁護士にもその事実を隠してメモを入れたことを認める証言をしていること、右メモが隠されていることについては、差し入れに赴いた弁護士は知らなかったこと、右事実が発覚したことによって乙谷が弁護士から注意を受けていることが認められる。

弁護人は、「右メモは、沢崎に直接面会できない職員らが、自分達は沢崎の無実を信じて支援していることを直接伝えたいとの思いから作成したものであり、逮捕という突発的な異常事態の中で行なってしまったものである」旨主張するが、いくら突発的な出来事があったとしても、差し入れ品の中にメモを隠す行為は行き過ぎであるといわざるを得ない。そして、右事実によれば、右行為については、乙谷も深く関与していたことがうかがわれるのである。ただ、右メモには、乙谷のほかに、「戊田花子、戊村、乙島、乙原、丙塚」の署名があるのであり、行き過ぎた行為ではあるが、それは他の職員にもいえることであり、乙谷だけを特別視することはできない。

(3) 右<3>に関して

ア 右<3>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、乙谷が、沢崎逮捕の翌日には、「沢崎については午後八時一五分まで被告人、乙谷、戊田と管理棟事務室でいた。その後、午後八時三〇分までは乙谷、戊田といたのでアリバイがある」とのアリバイ主張を記載したパンフレットを沢崎の支援者である戊村十江らと作成し、学園職員等に配付したこと、学園職員に対して警察への抗議及び沢崎を激励するためのシュプレヒコールを実施することを呼び掛け、以後、沢崎の釈放まで幾度となく県警本部前においてシュプレヒコールを繰り返すなどしてその支援活動を行ったことである。

イ 右事実については、関係各証拠によっておおむね認められるところであり、これらの事実は、検察官が主張するように、「沢崎の支援活動を極めて熱心に行っている」と評価できるものである。そして、その他の乙谷の言動をみても、乙谷が行った沢崎の支援活動が極めて熱心なものであったことは疑いがないところであり、そのことは、乙谷自身が手帳に「沢崎さんを救うために、どんな努力もする、どんなガマンもする、どんな屈辱にも耐える」と記載していることとも符合するのである。

ウ 問題は、なぜ乙谷がそこまで熱心に沢崎の支援活動を行うようになったのかということであるが、それについては次の(二)で検討することにして、ここでは以下の点を指摘しておく。

すなわち、乙谷が当初行った支援活動というのは、弁護士や職員らとの話し合いに基づくものが中心であったということである。証拠によれば、沢崎が逮捕された四月七日には、労働組合を通じて弁護人(弁護士)が選任されたこと、乙谷は、弁護士から、「全員が一致して継続して支援を続けること。捜査に非協力。面会の申し出をする(毎日)。弁護士への資料作り。釈放申し入れ書の作成。西宮署への抗議文。不当逮捕の記録(個人で暴行など)」という指示を受けていたことがうかがわれること、四月八日、乙谷は職員らに弁護士からの右指示を伝え、職員ら全員で沢崎支援の方法を話し合ったこと、乙谷は、弁護士に対して差し入れ、抗議文の提出、資料作りのことなどを報告し、弁護士から「申し入れ書は結構です。行動方針正しいです」と言われていること、同日夜、弁護士が加わって会議が行われ、その後の職員会議で、沢崎を支援するため被告人、副園長の乙海三夫、戊丘八郎、丁月一子、乙谷が対策委員となるなどの役割分担が決められ、乙谷は、沢崎の支援活動の中心として、弁護士との連絡窓口となり、弁護士からの指示等を職員側に伝えたりしていたこと、沢崎の支援活動の一環として、沢崎を激励するためのシュプレヒコールを西宮署の前で毎日行っていたが、そのことは弁護士も了解していたことが認められる。これらの事実によれば、乙谷が当初行っていた沢崎の支援活動は、ほとんど弁護士の指示あるいは了解、さらには職員らとの話し合いのもとで行われていたというべきである。

(4) 右<4>に関して

ア 右<4>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、弁護士は、乙谷の前記メモの差し入れについて注意をしていたほか、乙谷が行っていた一連の沢崎支援活動の方法が、互いの供述内容を統一させるようなものであったことを問題視して、乙谷及びその同調者に対し、四月中旬、「職員間に食い違いがあってもよい。意思統一をしてはいけない」旨の注意を与えるなどしたこと、これに対し、乙谷は、沢崎の勾留期間中に弁護士の解任を考えて沢崎に働きかけ始め、沢崎の釈放後、同人に対して弁護士の解任と新しい弁護人の選任をするよう求めたこと、その結果、乙谷の求めに応じて沢崎が弁護士を解任して新しい弁護人を選任したことである。

イ 関係各証拠によれば、弁護士から乙谷に対して、前記メモの差し入れについて注意がなされたほか、乙谷らの沢崎の支援方法等についても、ビラの内容が無責任であること、アリバイに固執するのはおかしいこと、職員間で供述の統一をしてはいけないこと、強引にしないことなどの注意がなされたことが認められる。

右の具体的な内容は、乙谷の手帳に、「ビラに書いてあることが沢崎さんの言っていることと違っていたらどうするか。警察と敵対するビラ。職員がまとめ上げたということになる。園の中でのことでアリバイを固執するのが逆におかしい。ひとりひとりの供述が大切。統一することはかえって不利」、「乙山、絶対にいたと意志統一をしたということは危険」、「警察に言ったことばをひるがえすのはおかしい。ただし、まちがっていたことはかえてもよい。みんなが変ってくるのはおかしい」、「乙谷も強引にしないように」、「本人さえがんばればよい」旨の記載があることからうかがわれるところであるが、右記載について、乙谷は、「それは弁護士からの注意ではなく、単なる弁護士の発言と思う」旨証言する。しかしながら、乙谷の右手帳等の記載内容からみても、それが、弁護士の乙谷に対する注意であり指示であって、乙谷がその内容を書き留めたものであると認めることができる。

なお、この点に関して、検察官は、「当時、弁護人からみても、乙谷の行っていた沢崎についてのアリバイ作出のための活動が妥当性を欠いたものとして目に余ったことがうかがえるのであり、その支援活動の異常性を示すものである」旨主張するが、弁護士が乙谷に注意、指示したのは、四月一一日、一二日ころのことであり、それも沢崎逮捕後の当初に乙谷がビラを配付したことが中心であり、その注意というのも、職員間で供述の統一をしたとみられる危険性を指摘したものといえるのであり、検察官の右主張のようにまでいえるのか疑問のあるところである。

ウ 検察官は、弁護士から注意を受けた乙谷が、そのことに反発して沢崎に働きかけ、弁護士を解任させて新しい弁護人を選任させたのであって、乙谷の行っていた沢崎の支援活動の異常さがうかがわれる旨主張する。

確かに、乙谷が、弁護士に対して不満を持ち、四月一九日ころには別の弁護士と会って相談したり、沢崎の釈放後、弁護士の解任及び新しい弁護人の選任がなされ、乙谷がそれに関与していることが認められる。

しかしながら、前記のとおり、乙谷が当初行った支援活動は、弁護士や職員らの話合いに基づくものが中心であったのであり、弁護士から右ビラについて直ちに注意を受けることなく「行動方針正しい」とまで言われていたのに、その後右のような注意を受けたことから、弁護士に対して腑に落ちない感じを受けて不満を持つようになったことがうかがわれること、四月一九日ころに会った別の弁護士とは知り合いであり、会ったのは沢崎の無実を明らかにするいろいろな方法を知るためであったこと、当初と異なり、沢崎の支援活動について、乙谷の考えと組合や弁護士あるいは他の職員との考えの間に大きな相違が出てきたため、沢崎の無実を信じる職員だけで沢崎の無実を明らかにするための活動を始めるようになったこと、沢崎が釈放されてから、積極的にその無実を明らかにするため、同僚ら七名で「沢崎悦子さんの自由をとりもどす会」(以下「とりもどす会」という)を結成し、国賠訴訟を提起することにし、その方針を持たない弁護士を解任して新たに弁護人を選任することにしたことが認められるのであり、右経緯に照らすと、乙谷が弁護士に不満を持ったことやその解任等に関与したとしても、それは乙谷の考え方や立場からすれば自然なことであり、異常とまでいうことはできない。

(5) 右<5>に関して

ア 右<5>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、乙谷が、沢崎の釈放後も釈放理由が処分保留であったため、沢崎のアリバイ主張を継続してその検討会を開くなどし、五月一五日には、沢崎の潔白を明らかにするためとして「とりもどす会」を結成し、七月には、国賠訴訟を沢崎らとともに提起し、同訴訟においても沢崎のアリバイを主張するに至ったというものであり、特に、四月二六日の青年の家で乙谷、戊田を含む沢崎の支援者の合宿が行われ、その際の発言として、日録には「これからする事。園児犯行説に通じるような情報を集める」、「供述書とのちがいは修正をする。警察にこのように言われたからこう言ったのだ」、「お互いが合理性のあるアリバイを証明しよう」という記載が存しており、その活動の異常性がうかがえるというのである。

イ 証拠によれば、右事実についてはおおむね認めることができる。

しかしながら、沢崎の釈放理由が処分保留であったのであり、その無実を明らかにするために会を結成して種々検討し、国賠訴訟を提起しようとすること自体を「異常である」ということはできない。

また、その検討の中で、情報の収集、整理を行うことも同様であり、このことをもって、アリバイの作出をするためであるというには、飛躍があるといわざるを得ない。例えば、四月二六日の会議には弁護士も出席しているのであり、右日録の記載も、もともと園児による犯行の可能性は職員も想定していたものであり、警察がその捜査をしないことから、事実を解明するために情報を収集することは不自然なことではなく、また、記憶と供述書の違いがあればその違いについての原因を考え、合理的なアリバイであるかを検討することは、許されないことではないのであって、右日録の記載から、直ちに、園児犯行説を作り上げ、供述書は警察に言われたものであるとして、アリバイを作出しようとしたものとまでいうことはできない。

(6) 右<6>に関して

ア 右<6>に関して検察官が具体的に指摘する事実は、一つは、四月八日の夜の職員会議において、弁護士に対して職員各自が事件当夜の行動を発表した際、乙原が「沢崎を午後八時二〇分ころ管理棟とサービス棟の間付近のグランドで見た」旨の発言をしたところ、乙谷が、「それは違う」と言って乙原の発言を制止したというものであり、証拠によれば右事実を認めることができる。

しかしながら、乙谷が、自己の活動方法及びその主張する沢崎のアリバイ内容を批判され、それに立腹することは、それほど不自然なものではなく、また、その場で乙原の発言を制止してもそのことによってすべて発言を封じることができるものではないのであり、検察官主張のような「自己のアリバイ主張に対する異論を封殺しているもので異常である」とまでいうには疑問がある。

イ もう一つは、戊山証言である。すなわち、戊山は、「五月五日に、戊山らが、乙谷らが沢崎の支援活動ばかりを行っているが園児死亡の真相究明を行う方が大事であることや沢崎ないし戊田に供述変遷があることなどを指摘したパンフレットを出し、それを父兄らに配付したことについて、乙谷から、『うそばっかり書きやがって』、『逃げるな。徹底的にしたる』などと言われ、すごい顔つきでにらみつけられた。そのため、恐怖を感じて父親に相談し、警察官に事情を説明した」旨を証言する。

戊山は、沢崎が犯人であるとの思いから乙谷らに対して批判的な立場をとっていた者であり、その証言における発言内容等をそのまま認めることには慎重にならざるを得ないが、そのような事実があったことは認めてよいと思われる。この事実は、行き過ぎであることは否めないところである。

(二) 乙谷が行った支援活動の意味について

前記のとおり、乙谷が行った沢崎の支援活動は極めて熱心なものであったと認められるのであり、その一部において、検察官が主張するように異常であるとか行き過ぎであるとの評価をせざるを得ないものがある。

そこで、乙谷がなぜこのような支援活動を行ったのかが問題となるが、検察官は、乙谷の支援活動の異常さを指摘するものの、その意味については明確な主張をしていない。その主張の全体から推察すると、「乙谷がアリバイを作出しようとしていた」ことを主張しているものと理解できるが、乙谷がそのようなことをした理由について推測しうる主張はなく、右(一)の<2>の主張に関して「異常な言動を乙谷が行う理由として考えられるのは、乙谷及び沢崎の両名が本件犯行を犯している場合、あるいは乙谷が沢崎が本件犯行を行っていることを知っているかあるいはその可能性が大きいと考えている場合である」という程度である。

乙谷証言によれば、乙谷は、「沢崎が無実であるという確信を有していたので、沢崎の支援活動を積極的に行い、また、積極的に国賠訴訟においてその無実をはっきりさせたいと思った」旨供述し、「沢崎が無実であるという確信を持った理由は、沢崎と一緒に甲山学園に帰って管理棟に入り、Xが行方不明になったことを聞くまで一緒にいたからである」旨供述するのである。この乙谷証言によれば、乙谷が支援活動を行ったのは自己の体験からくる沢崎の無実の確信に基づくものであったというのであり、その支援活動において異常といえるものがあったり行き過ぎがあったとしても、それが沢崎の無実の確信からのものであればそのことはことさらに不自然とはいえないのである。

乙谷が供述する沢崎のアリバイ(Xの行方不明を聞くまでは乙谷が沢崎と一緒にいたこと)については、その真実性の判断それ自体が沢崎のX殺害の犯人性の有無につながるものであり、ここでその判断をする限りではなく、ただ、前記のとおり、この点に関して検察官が主張する客観的事実である「丙林電話の終了時刻は遅くとも午後七時五〇数分である」との事実は証拠上認めることはできないのであり、この点において乙谷の供述内容が真実である可能性は否定されていないことが指摘できるのであるが、そのことはさておき、以下に検討するとおり、乙谷の供述する内容は、捜査段階の当初からほぼ一貫していると評価できるものであること、そこにはアリバイの作出をうかがわせるものはなく、他にも捜査段階当初において乙谷がアリバイを作出しようとしたことをうかがわせるものはないこと、乙谷がアリバイを作出したとすると、その理由が判然としないこと、その理由を乙谷が沢崎の犯行であることを何らかの形でまた何らかの理由で知っていることに求めると、それでは説明できない点がうかがわれることに照らすと、乙谷証言を排斥することは一概にはできないのであり、この点において、検察官主張のような、乙谷の支援活動の異常さをアリバイの作出をしようとしていたことの間接事実とすることには、疑問があるといわざるを得ない。

(1) 乙谷の供述内容は捜査段階当初からほぼ一貫していること

乙谷は、Xの行方不明を知るまで沢崎と一緒にいたことについては、一九日の夜の事情聴取から一貫して捜査官に供述している旨証言する。

乙谷の事情聴取に関する書類として取り調べたものは、49・3・19員面二通(検三九五、三九六)、49・3・23捜復(当審弁二三五)、49・3・28捜復(当審弁二三六)、49・4・1巡面(当審検一八)であり、この点に関する記載内容をみると、事件直後の供述調書である49・3・19員面(検三九六)には、Y子の死体発見状況の供述が中心ではあるものの、「学園に帰り、私は、戊田や沢崎と一緒に表事務室(管理棟事務室)にいたが、午後八時三〇分ころ当直の乙野、乙原がXがいなくなったと言って騒ぎ出したので私ら三人も表グランドに出た」旨の供述記載があり、いまだアリバイ等が問題にならない時期において、乙谷は既にXの行方不明を知るまで沢崎と一緒にいたことについて供述しているのである。そして、その後においても、供述内容が詳細になり細部において若干食い違いはみられるものの、Xの行方不明を知るまで沢崎と一緒にいたことについては一貫して供述していることがうかがわれるのであり、乙谷証言を裏付けているということができる。

すなわち、その後の49・3・23捜復によれば、捜査官の乙谷からの聞き込み結果としてではあるが、「午後八時ころ丙林に電話をし、午後八時一五分ころ被告人がY子の写真の焼き増しで神戸に行った。午後八時一五分ころ、戊田、沢崎の三人で事務室で捜索活動の記録作成にかかった。それから間もなくして、Xがいなくなったと言って乙野、乙原が運動場を走っているのを沢崎が聞き、沢崎が管理棟裏側の扉を開けて走っていく乙野、乙原に『どうしたの』と聞くと『Xがいない』ということであった。その時私は便所にいたので、その話を聞いた」旨を供述し、また、49・3・28捜復には、午後七時三〇分ころ管理棟事務室に入ってからの出来事について、捜索活動の記録を作成する話をしたり、パンなどを食べたこと、沢崎がY子捜索依頼をラジオ放送してもらったらと言い出し、丁沢電話をしたこと、丙林電話をして午後八時四五分に被告人がY子の写真をもっていくことになったこと、そのころJ電話があったこと、午後八時前にB電話があったこと、その後午後八時一五分に園長が出たことを供述し、「捜査記録を作ることになってから、便所へ行ったとき、管理棟のすぐ北側のグランド付近で沢崎が『Xがおらへん』と言っている声が聞こえ、すぐ事務室へ行き、戊田と一緒に管理棟玄関から出て青葉寮の方へ出て行った」旨を供述したことがうかがわれる。

また、詳細に事情聴取が行われたことがうかがわれる49・4・1巡面においては、管理棟事務室で捜索活動の記録を作成する話をしたりパンなどを食べたこと、午後七時四五分ころB電話があったこと、沢崎が言い出して、丁沢電話、丁岡電話をしたこと、午後八時一〇分ころ丙林電話をして、午後八時一五分だったのでその三〇分後の午後八時四五分に神戸新聞会館前で待ち合わせることを決め、被告人はすぐ出発したことを詳細に供述し、「捜索活動記録を作成している途中、便所に行った。小便をしていたとき、沢崎が廊下を歩いてトイレの入口まで来て、管理棟の出入口の戸を開けて『どうしたの』と大声でどなっていた。午後八時三〇分ころだったと思う。青葉寮の方から誰の声か男か女か分からないが、何か返事をしていたのを覚えている。小便をしながら『何んや』と聞くと、沢崎は『Xがおらんようになったんやて』とごく普通の調子で答えた。えらいことになったと思い、青葉寮に管理棟の正面入口から走っていった」旨供述しているのである。

(2) 乙谷がアリバイを作出しようとしたとすると生ずる疑問

前記のとおり、検察官は、「乙谷が沢崎のアリバイを作出しようとした」旨を主張していると理解できるのであるが、乙谷がいつ、どのような形で右アリバイを作出しようとしたのかについての明確な主張はない。前記の乙谷の事件当初からの事情聴取内容に照らすと、乙谷は事件直後から一貫して、Xの行方不明を聞くまでは沢崎と一緒にいた旨を供述していることがうかがわれ、また、Xの行方不明を知った状況について具体的に供述し、さらに、その前の管理棟事務室内での出来事について、丁沢電話、丁岡電話があったこと、B電話があったこと、丙林電話があり、時計で午後八時一五分を確認して被告人と丙林の神戸新聞会館での待ち合わせ時間を午後八時四五分と決めたことなどをかなり早期の段階から供述していることがうかがわれるのであるから、そのアリバイ作出は事件直後からということにならざるをえない。しかしながら、そのように考えると、次のような疑問点が指摘できるのであって、いかにも不自然といわざるを得ない。

ア すなわち、乙谷が主張する沢崎のアリバイ内容の中心的なものは、「丙林電話の際に時計で午後八時一五分を確認して待ち合わせ時間を午後八時四五分と決め、園長が出発してから捜索活動記録の作成にかかり、午後八時三〇分ころXの行方不明を聞くまでは、沢崎と一緒に管理棟事務室にいた」というものである。そして、乙谷がアリバイを作出するためには、自分だけがアリバイ内容を捜査官に供述したり、職員や父兄に主張したとしても意味がないのであり、控訴審判決あるいは検察官自身が「アリバイ工作」というように、この事実に関係する者らに働きかけてその協力を得るのでなければ、その効果がないのである。

しかるに、この事実に直接関係している者は、被告人、沢崎、戊田のほか、第三者である丙林がおり、また、検察官が、Xの行方不明を聞く前に戊田と乙谷は乙木とともに若葉寮職員室にいたと主張しているので、その乙木もいるのであって、事件直後から連日にわたって事情聴取が行われていることを考えると、これらの者全員に事件直後からアリバイ作出の協力を求めることは極めて困難であるといわざるを得ない。

イ しかも、これらの者の供述内容等をみると、乙谷からアリバイ作出に向けての働きかけがあったことをうかがわせるものは何もなく、むしろそれを否定するものであるといわざるを得ない。

例えば、<1>検察官の主張によれば、沢崎はX殺害の犯人であり、しかも、乙谷と沢崎が共犯であるとか、乙谷が沢崎が犯人であることを知っているかその可能性が大きいと考えていることを想定しているかのごとくであるから、沢崎は、乙谷がアリバイの作出をすることと密接に関係しているといわざるを得ないのであり、乙谷のアリバイ主張に即した形での供述があって当然である。しかしながら、沢崎の事件直後の供述内容をみると、丙林電話が午後八時一五分ころであるとか、被告人が学園を出発したのが午後八時一五分であるとか、Xの行方不明を知ったのが午後八時三〇分ころであるとかの供述はなく、むしろそれと異なって、丙林電話の時刻は午後八時近くである(49・3・28捜復当審弁二四〇)とか、Xの行方不明を知ったのは午後八時少し前である(49・3・20捜復当審弁三六〇)との供述をしているのである。

また、<2>戊田は、49・3・20捜復(検五二七)において、被告人は午後八時四五分に神戸で待ち合わせることになっていたこと、Xの行方不明を管理棟事務室で聞いたことを供述している。検察官の主張によれば、戊田は午後七時五〇分ころから若葉寮職員室にいたのが真実であるというのであるから、この戊田の供述は虚偽であり、その点において乙谷のアリバイ作出に協力しているということになる。しかしながら、そうだとすると、午後七時五〇分ころから若葉寮職員室にいた戊田が、なぜ乙谷のアリバイ作出に協力したのか合理的に説明することは困難であるうえ、Xの行方不明を管理棟事務室で聞いたことに関する右供述は、午後八時過ぎの、被告人がいてお茶を飲んでいたときのこととして供述されていて、その後変遷しているのであり、また、丙林電話の時刻とか被告人の出発時刻に関しての乙谷の供述に符合する供述はなく、さらに、若葉寮から戻ったときに沢崎はいなかったと思う(49・3・25捜復検五一四)とか、沢崎はおはぎの箱を持って出た(49・3・27捜復検五二八)などと、沢崎が管理棟事務室にいなかった趣旨の供述をしているのであり、アリバイの作出に協力している供述とは到底みられないのである。

さらに、<3>検察官の主張によれば、Xの行方不明を聞く前に戊田と乙谷は乙木とともに若葉寮職員室にいたというのであり、その旨を乙木は供述しているのであるが、乙木の供述をみると、乙木は当初はそのような供述をしていなかったのであるが、その後供述を変遷させて検察官主張の事実を供述するに至ったのである。しかるに、乙木は、乙谷からアリバイの作出に関する働きかけがあったことは供述していないのである。

(3) 乙谷が事件直後からアリバイの主張をしなければならない事情はうかがえないこと

そもそも、事件直後においてはXの行方不明の時刻などは明らかになっていない段階であって、事件直後からアリバイの主張をしなければならないような事情はうかがえないのである。考えられるとすれば、乙谷が、沢崎の共犯者であるとか沢崎が犯人であることを知っている場合であるが、例えば、沢崎が犯人であることをいつどのようにして知ったのかなど、それをうかがわせる具体的な主張もなければ、証拠もないのである。

2  被告人の支援活動状況

(一) 検察官の主張

検察官は、被告人の支援活動状況に関して、<1>「被告人は、沢崎の逮捕後、乙谷に同調し、自己の記憶に反してまで、沢崎のアリバイを主張しており、その支援活動は極めて異常である」、<2>「被告人は、沢崎の逮捕後、その支援活動に加わり、また、乙谷が、沢崎の逮捕時に行った言動について保護者から追及を受けるや、これを擁護するなど、不自然なまでに乙谷に対する支援の姿勢が見受けられる」、<3>「被告人は、国賠証言において沢崎のアリバイ主張を行うことを目的として、弁護団会議に出席し、国賠訴訟には、弁護人の立証方針、関係者の供述などをも予め十分に把握したうえで、証人として出廷しているもので、その証言には信用性がない」旨主張する。

(二) 検察官の主張に対する判断

(1) 検察官の右<1>の主張について

ア 検察官は、右<1>の主張について、具体的事実として、「被告人は、沢崎の逮捕時期には自己の出発時刻について明確な記憶がなかったのに、四月八日には、突然、『自分は午後八時一五分まで沢崎と一緒にいた』旨説明するなどしていた」旨指摘する。

イ 証拠によれば、被告人は、事件の翌日である三月二〇日、西宮署で事情聴取を受けて帰園する途中の車内において、乙原に対して「午後八時ころであれば神戸にいたため学園にはいなかった」旨述べていたこと(乙原証言)、警察官に対し、三月二六日までは、「学園出発時刻は午後八時前後ころと思うが明確には分からない」旨述べ、三月二六日には、「香雪記念病院前で腕時計を見たが午後八時一五分であったように思う」旨述べていたこと(小島証言他)、そのころ、職員に対して、「出発の時間を警察で尋ねられるけど、そんなことはいちいち覚えていない」(戊谷の53・3・17検面当審検一四八)とか、「午後八時ころまで学園にいた」旨(乙海三夫証言)述べていたこと、四月三日には、「午後八時過ぎに乙野と乙原がXの行方不明に気づき、青葉寮内を捜したがわからず、その後事務所にいた乙谷、戊田、沢崎(乙山は捜索準備のため神戸に行っていた)も捜した」旨を記載した報告書(当審弁二一〇)を甲山福祉センター理事長あてに提出していること、沢崎が逮捕される直前の保護者会において、「自分は午後八時前に学園を出たので、Xが行方不明になったことは知らなかった」旨説明していたことが認められ、これらの事実によれば、被告人は、沢崎が逮捕される直前までは、自己の学園出発時刻に関しては明確な記憶がなく、午後八時ころと思っていたことがうかがわれる。

ところが、沢崎逮捕の翌日である四月八日、「午後八時一五分まで沢崎と一緒にいた」旨学園職員及び弁護士らに発言し、四月九日、電話をかけてきた乙原に対し「学園を出発した時刻は午後八時一五分である」旨述べたことが認められる(乙原証言、戊山証言、戊山の49・4・20検面、戊谷の53・3・17検面当審検一四八、乙林の53・3・7検面、ファイル当審検二四)。前記のとおり、乙谷が、事件直後から沢崎のアリバイを主張しており、沢崎逮捕の翌日である四月八日には、「沢崎については午後八時一五分まで被告人、乙谷、戊田と管理棟事務室でいた」旨のアリバイ主張を記載したパンフレットを作成して学園職員等に配付したことに照らせば、被告人の「午後八時一五分まで沢崎と一緒にいた」旨の右発言は、右乙谷の主張に合わせたものと評価できるのであり、被告人が乙谷の沢崎支援活動に同調していたことを示すものと一応いうことができる。

しかしながら、その後の被告人の発言内容をみると、四月一〇日、乙谷夫婦に対し「何時に出たのかよく分からない」と述べていること、49・4・23員面、49・4・23捜復(検五一二)では、「当日着いた時間から考え午後八時過ぎに学園を出発したことになる。学園を出発してから途中で腕時計を見て、午後八時一五分であったことを記憶している」、「国道二号線に出てから見たかもしれない」旨供述していること、49・4・28検面では、「午後八時一五分という時計を事務室で見たように思う」との趣旨を供述するが、「出発時刻が午後八時一五分であることについては現在自信がぐらぐらしており確信は持っていない」旨供述していること、五月一五日ころ作成された「乙山春夫の行動」によれば、時計を見た際の時刻「八時一五分」については「(但し、場所と結びつかない)」と記載していることが認められるのであり、これらに照らすと、被告人は、右のとおり、自己の学園出発時刻を午後八時一五分と発言したものの、その後においては、そのことを一貫して供述しているのではなく、むしろ記憶がはっきりしないことを前提に供述していることがうかがわれるのであり、また、次の(2)で検察官の主張<2>についてみるように、乙谷の支援活動に対する関わり方や、乙谷の支援活動に疑問を感じてそれに反発する行動をとっていることがうかがわれるのであるから、沢崎の勤務状態や性格をよく知っている被告人が、三月一九日夜管理棟事務室を出発するまでの間沢崎と一緒にいたことから、沢崎が犯人であるはずがないという思いがあり、沢崎の無実を訴えようという気持ちが強く働き、確信を持って述べていた乙谷のアリバイ主張に従って右の発言をしたとみることもできることにも照らすと、右被告人の発言自体は乙谷に同調していると一応いいうるものであるとしても、それは一時的なものであり、右発言を乙谷の支援活動に対する同調とみて強調するのは相当ではなく、検察官が主張するような「その支援活動は極めて異常である」とまではいえない。

ウ なお、検察官は、「被告人は、事件発生後から、本件を内部者の犯行と考えており、職員から犯人が出るぐらいなら迷宮入りになることを願っていた」旨を指摘しており、被告人が記憶がないのにアリバイ主張をした理由の一つとしていることがうかがわれる。

確かに、被告人の49・4・26員面(検二八八)には「私自身としましては、できれば事件が迷宮に入り傷つく者がなくて済む解決方法を密かに望んでいたことも事実でありました」旨の記載がある。

しかしながら、この点について、被告人は、「真犯人は見つかってほしいが、濡れ衣を着せられて冤罪に泣く者が出ないことを願ったものである」旨供述しており、被告人自身認めるように表現としては適切でないものの、甲山学園長であった被告人の心情として理解出来なくはなく、このことをもって、被告人がアリバイ主張をするようになった理由の一つとみることには飛躍があるといわざるを得ない。

(2) 検察官の右<2>の主張について

ア 検察官は、右<2>の主張について、具体的事実として、「被告人は、沢崎の逮捕の翌日、乙谷が作成した沢崎逮捕に関する抗議文を警察に提出することを了解したこと」、「弁護士から、接見の際に沢崎に対して見せるためとの依頼を受けて、激励文(四月二三日付)を書いているが、同文書の記載には『あなたの潔白をみんな信じています』の記載に続き、『アリバイの証明もできますので安心して真実のみを語りなさい』との記載がなされていること」、「沢崎釈放後の五月五日の保護者会において、乙谷が逮捕される沢崎に対して『死んでもしゃべるな』と叫んだことについて問い詰められるや、『あれは真実をしゃべりなさいという意味で言ったものである』旨、保護者らの失笑を買うような説明をしてまで乙谷をかばったこと」を指摘する。

イ まず、証拠によれば、被告人は、乙谷が昭和四九年四月八日付で作成した甲山学園園長乙山春夫他職員一同名義の県警本部長あての「抗議文」について、甲山学園の印を押捺していることが認められる。この点は、沢崎の逮捕後に乙谷が中心となって沢崎の支援活動が行われ、被告人がその支援活動に加わっていることを示すものということができる。

しかしながら、右抗議文が作成された時期というのは、沢崎が逮捕されてまだ間がないときであり、前記のとおり、職員らが役割分担を決め、一致して沢崎の支援活動を行うことを話し合っていたものであり、右抗議文を出すことも支援活動の一つとして、弁護士の指示あるいは了解のもとであったことがうかがわれるのであり、園長であった被告人についてことさら強調するのは相当ではない。

しかも、右抗議文について、被告人は、49・4・26員面において、「今となっては、私自身思慮が足らなかったと後悔している」、「そのうち何とかこの文書を撤回しなければいけないと考えた」旨の供述をしているのであり、抗議文を提出してから後、沢崎の支援活動についてはその方法などで一定の距離を置くようになっていることがうかがわれるのである。

ウ 次に、証拠によれば、被告人は、弁護士から書いてくれと言われて、沢崎の接見の際に弁護士が沢崎に見せるための激励文を書いていること、そのうちの四月二三日の日付があるものには「アリバイの証明もできますので安心して真実のみを語りなさい」との記載がなされていることが認められる。

検察官は、右激励文を書いたことを前記抗議文と同列にして、被告人が乙谷の行った沢崎の支援活動に加わったことの一つとしてとらえているのであるが、そもそも、右激励文は弁護士の依頼によって被告人が作成したものであり、これを検察官が主張するような乙谷が行った沢崎の支援活動(さらにはアリバイ工作)と結びつけていうことはできないといわざるを得ない。

また、検察官は、右激励文の記載について、「当時自己の管理棟出発時刻について記憶喚起がなされていなかったにもかかわらず、既に沢崎のためにアリバイ主張を行おうとの意図を固めていたことを推察させるものである」旨主張する。確かに、当時は、被告人において自己の管理棟出発時刻についての記憶喚起がなされていなかったことがうかがわれるのであるが、いまだ沢崎が釈放されていない時期であること、弁護士に依頼されて作成したものであること、激励文の全文は、四月二三日の日付があるものは「あなたの潔白をみんな信じています。アリバイの証明もできますので安心して真実のみを語りなさい。うその自白をしてはいけません」というものであり、もう一枚は「頑張りなさい。真実を語りなさい。あなたを心から信じていますから」というものであること、管理棟出発時刻に関する前記の被告人の供述内容に照らすと、弁護人主張のように「これは被告人が沢崎と管理棟事務室に一緒にいたことを証明できる旨述べたもの」とみることもできるのであり、右記載の一部を取り上げ、その記載自体から、検察官主張のような「既に沢崎のためにアリバイ主張を行おうとの意図を固めていたことを推察させる」というには飛躍があるといわざるを得ない。

エ さらに、証拠によれば、沢崎釈放後の五月五日の保護者会において、乙谷が、沢崎逮捕の際に「死んでもしゃべるな」と沢崎に対して叫んだことについて追及を受けた際、「あれは真実をしゃべりなさいとの意味で言ったものである」旨説明したことが認められる。

検察官は、この点をとらえて、「被告人は、乙谷に替わり、しかも、乙谷が沢崎に述べた発言内容の趣旨をすり替えて父兄に説明しているものであり、保護者らの失笑を買うような説明をしてまで乙谷をかばう被告人の態度は、乙谷への傾斜をますます深め、まさに、沢崎の支援活動に関して乙谷に対する支援の姿勢をとっていた事実を示すものである」旨主張する。

確かに、乙谷の発言が黙秘権の行使をいうものであって不自然なものでないとすれば、乙谷にその旨釈明させれば足りるのであり、それをしないでおいて、しかも、叫んだ言葉自体からは出てこない「真実をしゃべりなさい」との意味である旨の説明をすることは、戊山証言や丙崎証言からもうかがえるように父兄も納得しないものであり、乙谷をかばっているものと評価されてもやむを得ないところである。

この点について、被告人は、「保護者会の混乱を収拾しようとして右のような発言をした」旨供述するが、一方では、父兄が乙谷の発言を問題にしたときはいまだ混乱はしておらず、被告人の発言のあとで混乱した趣旨の供述もしているのであり、信用できない。

もっとも、被告人は、五月五日甲山学園長を退職しているのであるが、これまで学園の再開に向けて努力してきて、その日の保護者会でその話し合いが行われる予定であったのであり、その際に、予定していない乙谷の発言に対する追及があったことから、そのことによる混乱を避けるために被告人が園長として右のような対応をしたとの理解も一面において可能であり、その対応に不十分なところがあったとしてもやむを得ないともいいうるのである。

したがって、この被告人の発言をとらえて、検察官の主張するような「乙谷への傾斜をますます深め、まさに、沢崎の支援活動に関して乙谷に対する支援の姿勢をとっていた事実を示すものである」とまでいうには、いささか疑問を抱かざるを得ないところである。

(3) 検察官の右<3>の主張について

ア 検察官は、右<3>の主張について、具体的事実として、被告人が「とりもどす会」及び弁護団会議へ出席してアリバイ固めをしていたこと、国賠訴訟に向けての準備状況を指摘する。

イ 証拠によれば、検察官が主張する事実については、おおむね次のことが認められる。すなわち、被告人は、六甲学生センターにおいて、乙谷が中心となって結成された「とりもどす会」に参加し、同会の顧問になることを依頼されたりし、「とりもどす会」や弁護団会議に出席したこと、そのなかで、沢崎のアリバイについての情報収集、証拠整理などが行われたこと、被告人の出席した弁護団会議においては、遅くとも五月三〇日には国賠訴訟の提起を考え始めていたとうかがわれること、被告人は国賠訴訟で証言するにあたっては、自己について行われる尋問の具体的内容についての準備を行っただけではなく、弁護士から、本件事件全体について弁護人が計画していた具体的な立証計画の概要を記載した書面を受け取り、これを検討し、また、捜査官が作成し弁護人に開示した捜査記録内容及び沢崎らの主張するアリバイに疑問を提起している職員らの主張内容をも理解していたことを認めることができる。

ウ 検察官は、これらの事実から、「被告人は、国賠証言において沢崎のアリバイ主張を行うことを目的としていたのであり、その証言には信用性がない」旨主張するが、それは、結局は、沢崎のアリバイを主張するため自己の記憶にないことを証言したということを主張しようとするものと理解できる。しかしながら、右事実からいえることは、被告人が国賠訴訟に向けて代理人となる弁護士らの指導のもとに周到な準備をしていたことであって、それ以上に、自己の記憶に反する事実を証言しようとしたことではない。この点については、被告人自身が、「弁護団会議は、国賠訴訟において沢崎が無実であることを証明するための会議であると思っていた。国賠訴訟を起こすという話が持ち上がった時は、自分は証人として出る気になっていたと思う。自分の役割は沢崎のアリバイを証明することである」旨供述しているところでもある。そして、被告人は、国賠訴訟で証言することを決心した理由について、おおむね、「沢崎の人柄と事件当日沢崎と一緒にいた事実から、沢崎の無実を信じていたのであり、加えて、六月に行った検察官の走行実験により丙林電話の際の八時一五分という時刻の記憶を喚起した」旨供述するのである。そうすると、検察官の右主張の当否を判断するためには、被告人の記憶喚起の過程についての検討が必要であり、以下においてあわせて判断する。

五  被告人の記憶喚起過程について

1  丙林電話の時刻に関して(学園出発時刻を含めて)

(一) 被告人の記憶喚起過程に関する供述内容

(1) 被告人は、丙林電話の時刻(学園出発時刻を含めて)に関する国賠訴訟での証言内容の記憶を喚起した過程について、「当初から、八時一五分という時刻の記憶は鮮明にあったが、どの場所で八時一五分であったのかという印象がもうひとつなかったので、当初から供述することができなかった。六月七日と同月一一日に検察官と走行実験をした際に、丙林との待ち合わせ時刻を決めたのが午後八時一五分であったことを鮮明に思い出した。事件後早い時期に、学園を出発したのが午後八時一五分であったと思い出していたが、戊野五郎が丙林電話の時刻は午後八時前と断言していて信用できるということを捜査官に言われていたことや、私自身、甲山学園から神戸新聞会館まで四、五〇分かかると思っていたことなどから、自分の気持ちが非常に揺れ動いた。それが、六月の走行実験で、神戸新聞会館まで所要時間が三三、三四分であったこと、走行実験に同行した検察官が『出発時刻は園長(被告人)の言うとおりである』という趣旨のことを言ってくれたことなどから、自分の記憶に対する自信を回復した」旨供述する(国賠証言、一審での被告人の公判供述、当審での被告人の公判供述)。

(2) そして、被告人の記憶喚起過程についての右供述に加え、被告人の国賠証言、公判供述及び捜査段階での供述の内容を照らし合わせると、被告人の事件後の記憶状況と記憶喚起の具体的内容はおおむね次のようなものであったということができる。

ア すなわち、被告人は、事件後は捜査官に協力する一方、学園再開に向けての準備を進めていた。被告人は、当初から、学園職員については疑惑を抱いておらず、事件後まもないころは、管理棟事務室での出来事が重要な意味を持つとは考えておらず、その出来事については、捜査官に対しても記憶があいまいなまま供述していた。そのあいまいな記憶というのも、被告人は、園児が死体で発見されたことに衝撃を受け、事件後記憶の一部があいまいになったり、欠落が生じたりしていたものであった(被告人は、これを「遡向抑制」という言葉を使って説明している)。

イ そして、右「遡向抑制」により記憶があいまいになったり欠落が生じていた被告人は、その後捜査官から「おはぎ」について指摘されて、サンテレビから甲山学園への帰路に自らが購入してきたおはぎを乙谷、沢崎、戊田らと食べたりお茶を飲んだりしたことを思い出し、また、捜査官から、乙谷、沢崎、戊田が管理棟事務室へ入ってきたのが午後七時半ころであること、B電話が午後七時四〇分ないし四五分であること、乙木が午後八時に若葉寮で戊川からの電話を受けており、その際に戊田が若葉寮にいたことなどを指摘されるなかで、管理棟事務室での出来事を思い出していった。

ウ 被告人は、事件後まもないころには、丙林電話での待ち合わせ時刻は午後八時四五分であること、新聞会館に到着する直前の時刻は時計を見て午後八時五〇分であったことの記憶は喚起していた。また、被告人は、三月二六日に捜査官とともに学園から新聞会館までの走行実験を行ったが、それまでには、具体的な場所との結びつきはなかったものの、腕時計を見た八時一五分という時刻を思い出していた。そして、右走行実験の結果、ストの日で昼間であるのに学園から新聞会館までの所要時間が約四〇分程度であったため、被告人は、学園を出発した時刻は午後八時前ということはありえず、午後八時過ぎに間違いないと思うに至った。

エ 沢崎の逮捕により、被告人が管理棟事務室を出た時刻がいつであったかということが重要な意味を持つことになった。被告人は、職員会議などを通して、乙谷が「午後八時一五分まで管理棟事務室にいた」旨述べていることなどを情報として知っていた。被告人は、情報は情報として、自らの記憶の喚起に努めたが、管理棟事務室を出発した時刻を明確に思い出すまでには至らなかった。

オ 他方、被告人は、丙林と待ち合わせの約束をした際に午後八時四五分という時刻に間に合うだろうかという思いを抱きながら、管理棟事務室を出て学園をすぐに出発したことの記憶と、新聞会館に着く直前に時計を見て午後八時五〇分であったこと、どこでかは思い出せないものの八時一五分という時計の時刻を見たことの記憶もあった。そして、八時一五分という時刻を時計で見たのは、管理棟事務室か、車に乗り込んだときか、香雪記念病院の前か、国道二号線に出たときかのどれかであるが、被告人としては事務室で見たように思っていた。その一方で、捜査官からは、丙林電話は午後八時前であり、戊野五郎がその旨供述しているので信用できること、乙木が午後八時に戊川から若葉寮にかかってきた電話で話をしているとき、そばに戊田がいたことなどを聞かされていたのであり、戊田が若葉寮に行ったのを被告人が覚えていない以上、被告人が学園を出発したのは午後八時前になるのではないかとも指摘されていた。

カ 被告人は、学園を退職した後、時間をかけてゆっくりと落ちついて当時の状況を考えていく中で、遡向抑制もとれて、当時の状況を次第に思い出すようになっていた。しかしながら、管理棟事務室を出た時刻に関しては、なお明確な記憶を喚起できなかった。

キ ところが、六月七日および同月一一日に行われた検察官による夜間の走行実験によって、学園から新聞会館までの所要時間が一回目三三分、二回目三四分であり、二回目の直後に、走行実験を行った検察官の武並から、「学園を出発した時刻は被告人の言うとおりである」旨の言葉をかけられた。被告人にとっては、右検察官の言葉は「お墨付」となり、これまでの「午後八時前に出発したのではないか」という障碍もなくなり、丙林電話の間に乙谷が被告人に時間を尋ね、被告人が乙谷に時計を見せて乙谷が丙林との待ち合わせ時刻を決め、そのとき被告人もその時計を見たが、その際時計の時刻は午後八時一五分であったということを鮮明に思い出したというのである。

(3) このような被告人の具体的な記憶状況、記憶喚起過程については、おおむね捜査段階における被告人の供述調書や捜査復命書、発言内容による裏付けがあること、後記のとおり、被告人の記憶喚起の過程が不自然である旨の検察官の主張はほとんどが理由がないこと、衝撃的な出来事により記憶があいまいになったり欠落が生じるとか、その後自己の記憶を裏付けて確信が持てる出来事により、記憶喚起の障碍となっていたことが取り除かれ、あいまいであったり欠落していた出来事がよみがえることは、経験則上みられるところであり、そのこと自体は不自然でないことに照らすと、被告人の供述する記憶喚起過程は自然で合理的であるということができる。

そして、この記憶喚起過程に照らすと、被告人は、走行実験での出来事により、国賠訴訟で証言した出来事の記憶を喚起したとみることができる。すなわち、この記憶喚起した内容は、乙谷が主張していたアリバイ主張内容と合致するものであるが、それは、その事実が真実である可能性と、そうではなくても、被告人が記憶を喚起する過程において乙谷が具体的に主張していた内容に引きずられて記憶を喚起したと思っただけの可能性もあるが、いずれにしても、それは被告人の記憶として喚起したものというべきである。

(二) 「被告人の記憶喚起過程は不自然である」旨の検察官の主張とそれに対する判断

(1) 検察官は、前記の被告人の供述変遷状況を指摘したうえ、「記憶の喚起の結果というにはあまりにも不自然な変遷であって、これに乙谷らの供述状況並びに乙谷らの沢崎の支援活動状況を照らし合わせると、沢崎のアリバイ立証のためには、自己の出発時刻を午後八時一五分としなければならないことを知悉していた被告人が、悩みながらも、乙谷の供述に合わせていった状況が認められる」旨主張する。

しかしながら、前記被告人の供述変遷状況を、右被告人の記憶状況及び記憶喚起過程に照らし合わせると、被告人の供述変遷状況は、検察官が主張するような「あまりにも不自然な変遷である」とか、「悩みながらも乙谷の供述に合わせていった」ということはできないものといわざるを得ない。

ア すなわち、被告人は、当初、「午後八時ころであれば神戸に行っていた」などと述べ、学園出発時刻を午後八時前とか八時ころと説明していたことがうかがわれるが、それは、出発時刻を明確に意識したうえでの供述というよりも、学園を出発するまでにXが行方不明になったことを聞いていないという記憶から、当日の状況を説明するために大まかな表現をなしたにすぎないものというべきものであり、午後八時というのは、被告人が職員から「Xの行方不明に気付いたのが午後八時ころである」旨の報告を受けていたことが影響しているものとみるべきであり、出発時刻を明確に意識したうえでのものではないことがうかがえるのである。

イ そして、被告人は、前記のとおり、沢崎逮捕後の職員等に対する説明の際に、学園出発時刻を、乙谷が主張していたのと同じ午後八時一五分であると説明しているのであるが、これは、検察官も主張しているように「突然」であり不自然な感は否めない。

しかしながら、この点については、前記のとおり、沢崎の勤務状態や性格をよく知っていて、当夜管理棟事務室を出発するまでの間沢崎と一緒にいたことから、沢崎が犯人であるはずがないという思いがあり、沢崎の無実を訴えようという気持ちが強く働いたことや、多くの者が沢崎が無実であるという意識で支援活動をしていこうというその場の雰囲気もあり、確信を持って述べていた乙谷のアリバイ主張に従って右のような発言をしたとみることもできるのであり、このことは、その後の被告人の発言をみると、一貫して学園出発時刻を午後八時一五分であるとは供述しておらず、むしろ、八時一五分という時刻の記憶はあるが出発時刻の記憶ははっきりしないことを供述しているのであり、右発言が一時的なものであったとみられることからもうかがわれるのである。

ウ 検察官は、「悩みながらも乙谷の供述に合わせていった」旨を主張するのであるが、被告人が乙谷の供述に合わせて学園出発時刻を八時一五分と説明したのは、記憶喚起した以降は別として、右の一時期だけであり、むしろ、八時一五分という時刻の記憶はあるがそれがどこであったのかという記憶があいまいであることを一貫して供述していたというべきであり、殊に、捜査官に対しては出発時刻が午後八時一五分であるとの趣旨の供述を一切していないことにも照らすと、検察官主張のようにいうことはできないといわざるを得ない。

エ なお、被告人は、「当初から、八時一五分という時刻の記憶は鮮明にあったが、どの場所で八時一五分であったのかという印象がもうひとつなかった」旨供述するのであるが、そのことを供述したり説明したりした旨の供述調書等はない。

しかしながら、「戊野五郎が丙林電話の時刻は午後八時前と断言していて信用できるということを捜査官に言われていたことや、私自身、甲山学園から神戸新聞会館まで四、五〇分かかると思っていたことなどから、自分の気持ちが非常に揺れ動いた」旨の供述には、供述調書等により一応の裏付けがあること、49・3・26捜復(検五一一)によれば、同日の走行実験の途中、被告人が香雪記念病院前で腕時計を見たら八時一五分であったと供述したことがうかがわれることに照らすと、被告人が、かなり早い時期に八時一五分という時計の時刻を見た記憶があったがその場所がはっきりしないことを捜査官に話していたか、あるいは、走行実験の際にこの場所で見たという思いが浮かんだことがうかがわれるのであり、被告人の供述を裏付けるものということができる。この点をとらえて、乙谷の供述に合わせたものという考えも可能であるが、そうであれば、端的に管理棟事務室とか出発するときに時計を見たとはっきり述べればよいのであり、その後、その場所を訂正して学園からさらに遠くなる国道二号線に出てから見たかもしれないと供述していることにも照らすと、乙谷の供述に合わせようとしたものと考えることはできない。

(2) また、検察官は、右(1)に関連して、被告人が六月の検察官との走行実験の結果、管理棟事務室内で時計を見たことを思い出したという点について、「ファイル(当審検二四)には、四月八日に被告人が職員、弁護士らに述べたと思われる内容として、『八時一五分。半時間で行けるかなと心配しながら見る』との記載があり、被告人がいまだ記憶を喚起していない段階での右供述と、国賠訴訟における、『乙谷が丙林電話の際に丙林との間で待ち合わせ時刻等を決めた時、そんな早い時間に行けるのかなという強い印象を受けた。時計を見ると八時一五分であった』旨の証言とは、被告人の内心の気持ちも含めて同一内容のものとなっていることを考えると、右証言が真に記憶を喚起してなされたものであるとするには、余りにも不自然であるといわざるを得ない」旨主張する。

確かに、右ファイルには右記載があり、右記載は、被告人が、四月八日に、沢崎の逮捕後に職員や弁護士に沢崎のアリバイを説明した際に、被告人が発言した内容であることがうかがわれるのである。そして、この記載内容は、検察官主張のように、国賠訴訟における被告人の証言内容と同一であるということができる。

しかしながら、被告人は、どこで見たのかははっきりしなかったが、八時一五分の時計を見た記憶はあり、学園出発時刻についても午後八時一五分ころであるとの記憶もあったが、それに反する出来事を捜査官から聞くなどしていたため、その記憶に自信が持てなかったのであり、そのような中で、沢崎の逮捕後、前記のような事情から、職員や弁護士に対して、午後八時一五分まで沢崎らと一緒に管理棟事務室にいたとして沢崎のアリバイを説明したのであって、その際に、学園出発時刻を午後八時一五分として考えた場合に、被告人が考えていた所要時間から「半時間でいけるかなと心配しながら見る」と説明したとしても、そのこと自体は思考過程としては不自然なところはない。被告人としては当時はその記憶自体に自信が持てなかっただけにすぎないのであり、右ファイルの記載をもって、被告人の記憶喚起過程そのものが不自然とまではいえない。

さらに、検察官は、前記の乙沢冬子証言を指摘し、「被告人が記憶を喚起した後の昭和五〇年八月初めころ、乙沢冬子に問い詰められたため、真実の喚起がないことを漏らした」旨主張する。乙沢冬子証言の内容は前記(第八の三の3の(二)参照)のとおりであるが、乙沢冬子証言での被告人の述べた内容は、被告人が、記憶があいまいであったが走行実験により確信を持った、すなわち記憶を喚起したこととその理由を述べているものと理解することも可能であり、このことは乙沢冬子自身が同証言において、「警察が走行実験をしてそうなったと言った」と証言しながら、一方では「そのことは今思い出した」とか、「被告人が確信を持ったと言っていた」、「捜査段階でそのような説明をしたかもしれない」と証言して、右のような解釈を必ずしも否定していないことからもうかがわれるところである。乙沢冬子は、Xの母親として沢崎が犯人であると思っていること、被告人の言動から被告人を恨んでいること、沢崎の無実を証明しようとする国賠訴訟においてその証人として出廷することを決めた被告人に対して許し難い気持ちを持っていることを証言しているものであり、そのような証人が言う意味をそのまま被告人が述べた言葉の意味であるというにはちゅうちょせざるを得ない。

(3) さらに、検察官は、「三宮までの所要時間を四〇分から五〇分はかかり、約束の時間に行けるか否かを心配したというのであれば、丙林との待ち合わせ場所及び時刻を決めた乙谷に対して、被告人自身が三〇分くらいで行けるのか否かを確認するのが自然であるのに、そのような行動は全くとっていないのは極めて不自然である」旨、また、「乙谷は、三〇分ぐらいで着くと考えて八時四五分に待ち合わせ時間を決めた旨供述するが、人と待ち合わせ時間を決める場合は、ぎりぎりの時刻ではなく、ある程度の余裕をもたせた時刻を設定するのが普通であるうえ、被告人の了解をとるのが通常であると考えられるが、乙谷は全く一方的に時刻を指定しているのは極めて不自然である」旨主張し、「乙谷が、被告人の了解もとらずに待ち合わせ時刻を設定し、その設定した時刻について被告人が特に乙谷に対して注意、確認をしていないという事実は、乙谷が丙林との待ち合わせ時間を約束した時刻は、八時一五分よりもっと以前の余裕のある時間帯であったことを推認させるものである」旨主張する。

しかしながら、被告人は、乙谷が決めてしまったことであり、間に合うか心配ではあったが、乙谷も園児の仕事の関係もあって頻繁に神戸に行っているのであるから、無理な時間の約束をすることもないと思い、約束のやり直しなど言わずに、とにかく急いで出発したというのであり、このような被告人のとった判断や行動は、状況から考えて、それほど不思議なことではない。また、乙谷がぎりぎりの時間を決めたことについても、新聞会館前での待合わせであり、夜も遅く、寒い時期であったことを考えると、時間待ちをする必要がないように丁度到着する時刻を指定したと考えることもできるのであり、一概に不自然とはいえない。

(4) 検察官は、「被告人及び乙谷は、当審において、『事件当夜の管理棟内のことについて、沢崎が逮捕される以前に確認し合ったようなことはないし、沢崎の逮捕後釈放されるまでの間もしていない。釈放後も確認し合うようなことをしたことはないが、弁護団会議の席上で色々話が出るので情報は入ってきていた』旨供述するが、被告人については、捜査官から学園出発時刻をいろいろ尋ねられ、走行実験まで行っているのであるから、警察がその点について非常に関心を有していることを理解していたはずであり、被告人自身も、自己の出発時刻がいつか不明確な状態であり、それを気にして考えていたというのであるから、乙谷や沢崎らに確認するのが普通であると思われ、また、沢崎の逮捕後は、まさに沢崎のアリバイを主張しているのであり、沢崎が犯人でないことを信じて支援活動を行っていた被告人としては、乙谷や戊田との間で当夜の状況についての話し合いを行い、互いの記憶を確認し合うのが通常であるのに、それを行っていないという被告人の当審における供述は、自己の出発時刻を午後八時一五分とする供述が記憶喚起過程において乙谷の供述に影響されていないことを強調したいがためのものとしか考えられないのであり、この点からも、被告人の記憶喚起に関する供述は信用できない」旨主張する。

なるほど、検察官が主張する事実自体は正当であり、被告人らがいろいろな話し合いをすることはむしろ自然であり、それを何もしていない旨の被告人の供述はその点において不自然とはいいうるものの、しかし、そもそも、管理棟事務室内での出来事が重要であるとの認識は被告人には当初なかったのであり、沢崎逮捕により被告人の学園出発時刻が重要な問題となったが、沢崎逮捕後は、職員や弁護士間で種々の話し合いが行われていたのであり、それとは別に、被告人が乙谷や戊田、沢崎らと確認し合うことがなかったとしても、被告人は学園の再開の準備などで多忙であったり、乙谷に対して一定の距離を置くなどしていたことにも照らすと、それをことさらに不自然ということはできないというべきである。

2  電話の順序に関して

(一) 被告人の公判供述

(1) 供述内容

被告人は、電話の順序に関する国賠訴訟での証言内容の記憶を喚起した過程について、おおむね「五月五日に退職して仕事を離れた後に一生懸命事件を振り返って見て、だんだん電話の順序を思い出した」旨供述する(一審公判供述、当審公判供述)。

(2) 被告人の供述からうかがわれる被告人の具体的な記憶状況、記憶喚起過程

被告人の供述からみると、被告人の具体的な記憶状況、記憶喚起過程は、おおむね次のようなものであったことがうかがわれる。

ア すなわち、昭和四九年三月一九日午後七時三〇分ころから、被告人が管理棟事務室を出るまでの間に、管理棟事務室内においてかかってきたりかけたりした電話の順序についても、被告人は事件後十分に記憶が喚起できていなかった。被告人は、B電話は警察官から午後七時四〇分ないし四五分ころであって、これは間違いないと言われており、他方丙林電話の後にすぐに管理棟事務室を出ていたのであるから、B電話が先で丙林電話が後であることは記憶していたが、B電話と丁沢電話および丁岡電話の順序については、十分記憶を喚起できないでいた。

イ そして、そもそも電話の順序についてはそれほど重要なものではなく、捜査官も被告人もその点に大きな関心を持っていなかったことや、記憶に残りにくい出来事であったため、例えば、丙谷電話については失念したままの時期が長く続いた。このような経過の中で、被告人は、管理棟事務室内での電話については、外部からのB電話と丙林電話があり、管理棟事務室から丁沢電話と丁岡電話があったこと、丙林電話の後に丙林に会う約束ができ、すぐに管理棟事務室を出たことを思い出していたが、電話の順序については明確には思い出していなかった。

ウ 他方、被告人は、沢崎の逮捕以降、職員会議などで乙谷から電話の順序について説明を聞いてはいたものの、被告人の記憶が乙谷の説明とは必ずしも一致しないようにも思われて、乙谷の説明に合致させることはなく、被告人自身の記憶に従って供述したうえ、記憶の喚起に努めていた。

エ 被告人は、五月五日甲山学園を退職した後、事件をふり返って記憶の喚起につとめた結果、沢崎、乙谷、戊田は午後七時三〇分ころ管理棟事務室へやってきて、被告人が買ってきたおはぎや、沢崎が買ってきたみかんやパンを共に食べるということがあったこと、一息ついたころそこにB電話がかかってきて、乙谷が青葉寮へインターホーンで連絡したが応答しないので、乙谷は管理棟事務室から青葉寮まで連絡に赴いて知らせた後再び管理棟事務室へ戻ってきたこと、その後にY子の捜索をマスメディアに依頼する話が出て、沢崎がお花を習っている同僚の中に「ラジオ大阪の偉い人」の奥さんがいるのを思い出してその人にお願いしてみようという話になったこと、これらの経過について記憶を喚起した。

オ さらに、被告人は、五月下旬ころの弁護団会議の席で、丙谷電話があったこと及びその時間が午後八時前であったことを聞いて、丙谷電話が存在したことについて記憶を喚起し、かつ丙谷電話はB電話の後であって、丙谷電話の午後八時前という時間も、被告人の記憶に矛盾せず、むしろ記憶に合致するという印象をもった。

カ その後、前記のとおり、検察官による走行実験が六月七日と同月一一日の二回行われたが、その際被告人は検察官武並から「お墨付」をもらい、それを契機に丙林電話が最後であると確信し、その後に、管理棟事務室における午後七時三〇分ころ以降の電話の順序が、B電話、丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話、丙林電話の順になることについて記憶を喚起していた。

(3) 被告人が供述する具体的な記憶状況及び記憶喚起過程に対する評価

被告人が供述する具体的な記憶状況及び記憶喚起過程は、通常人がある程度の時間や日数をかけて過去の体験事実に関する記憶を秩序だった形で蘇らせる場合の一般的なプロセスに通ずるものと評価できるのであり、自然であり合理的である。

すなわち、そもそも、管理棟事務室内での電話については、午後七時三〇分ころから数十分という短時間の間にあったもので、しかも、被告人が直接に通話口に出て応答したという電話ではないのであり、被告人の記憶に残りがたい出来事であるといえる。そして、捜査官にとって、三月当時、電話の順序はそれほど重要な事柄ではなかったのであり、この点については被告人にとっても同様であり、事件直後から記憶喚起に努めるような出来事ではなかったのである。被告人は、事件後、捜査官に協力する一方、学園の再開に向けての準備に努力していたものであり、学園職員についての具体的な疑惑などなかった事件後まもないころは、管理棟事務室での出来事が重要な意味を持つとは考えず、その間の出来事について厳密な意味で順序や時刻を思い起さなかったとしても、不自然ではなく、前記供述調書の記載もそれを示すものということができる(三の2の(一)参照)。その後、管理棟事務室内での出来事がある程度問題となり、電話の順序も含めて職員会議などで問題になったり、種々の情報が入る中で、自己の記憶を整理し記憶を喚起していくことは、これも至極当然なことである。

(二) 検察官の主張とそれに対する判断

(1) 検察官の被告人の供述の変遷に関する主張とそれに対する判断

検察官は、前記被告人の供述の変遷を指摘し、「乙谷らの供述の変遷、供述状況並びに乙谷らの沢崎の支援活動状況に照らすと、被告人は、乙谷の主張内容に合致させる形でその供述内容を変遷させているといわざるを得ない」旨主張する。

しかしながら、これまで検討した電話の順序に関する被告人の供述内容をみると、被告人は電話の順序に関しては記憶がはっきりしない旨をほぼ一貫して供述したものであり、前記の支援状況からしても、乙谷の供述にあわせたとはいえない。

検察官は49・3・28捜復(検五二二)の「乙谷が大阪放送からの返事と思って電話を取ったところB電話であったことからすると、B電話、ラジオ大阪電話の順であったと思う」旨の記載を根拠に、既に記憶喚起ができていた旨主張する。

しかしながら、被告人が右のとおり供述していたとしても、右供述の時期からすれば、電話の順序を再三尋ねられていた被告人が、いろいろと推理し思いついたことのひとつを話したにすぎないと考えられ、確実な記憶といえるほどのものではない。また、右被告人の言葉であるが、「大阪放送からの返事」というのが、丁沢電話の後ということか、丁岡電話の後というのか、はっきりしないのである。前者であれば、「乙谷が電話を待っていた」ことが客観的事実に反しており、右推理の前提が誤っていることになる。後者であれば、49・3・26捜復(検五二〇)で「大阪放送へ電話をして了解を取る」と供述したことと矛盾しているのであり、その点の説明が必要であるが何の説明も記載されていない。さらに、49・3・28捜復(検五二二)の内容をみても、大阪放送との電話の内容について何の記載もないばかりか、電話がかかってくるまでの乙谷のいた位置やその様子など、その場の状況を示す供述は一切なく、単に被告人が思いつきを述べたにすぎないことがうかがえるのである。このことは、前述のとおり、被告人は、49・4・23員面、49・4・28検面でも、電話の順序は正確には覚えていないと供述しており、四月末の時点でも、未だ確定的な記憶として自信を持って供述できるだけの記憶喚起が出来ていなかったと思われることからもうかがうことができる。右捜復の記載内容に加え、そもそも、三月当時においては、電話の順序に関してはいまだ捜査官側にとってもそれほど重要と思われておらず、被告人らにおいても同様であったことがうかがわれるのであり、また、右49・3・28捜復の「大阪放送からの返事ではないかと思った」旨の記載は事実と異なるものであることや、捜復の性質上その正確性にはいささか疑問があることにも照らすと、右49・3・28捜復の記載をもって、被告人が、B電話が丁沢電話のあとであったことを記憶喚起していたということはできない。

これらを総合すれば、被告人は、この時期に至るも、電話の順序に関しては記憶を十分に喚起していなかったといわざるを得ず、検察官の主張は理由がない。

(2) 検察官の被告人の弁解に対する主張とそれに対する判断

検察官は、「被告人は、国賠訴訟において、『警察官の取調べの時は、電話の順番がそんなに重要と思っておらず、電話の順序は国賠証言時と同内容の話をしたと思うが、警察官から記憶が混乱しているということを言われて、そのような調書になってしまったものと思う。調書が自己の供述どおりになっていないことには気づいていたが、訂正をしてもらうのも気の毒な気になった。電話の順序などはわざわざ書き直してもらうほど重要ではないと思っていた』旨証言しており、前記記憶喚起過程と異なる証言をしているのであって、前記記憶喚起過程に関する被告人の供述は信用できない」旨主張する。

確かに、被告人は、国賠訴訟において検察官主張のような証言をしている。しかしながら、この証言については、後記のような尋問経過(六の4の(一)の(2)参照)があり、結局、丙谷電話を大阪放送関係の一連の電話として考え、また、丙林電話が最後であるとか、B電話、丁沢電話、丁岡電話があったことは既に思い出していた段階にあったのであり、尋問の際に、右取調べ時には既に思い出していたと思って記憶したとみるのが自然であり、この点において、被告人の供述に変遷があったとしても、これをもって、検察官主張のようにいうことはできない。

六  被告人の自白の信用性

以上のとおり、検察官が被告人の偽証の犯意を推認させると主張する間接事実については、それを認めるには疑問があるところである。しかしながら、被告人の捜査段階での供述調書中には、偽証の犯意を認めた自白調書が存在するので、以下、その信用性を検討する。

1  自白調書の供述内容

被告人は、本件偽証の被疑事実によって、昭和五三年二月二七日逮捕、同年三月一日勾留(同月九日勾留延長)され、同年二月二八日から同月三月一九日までの間、検察官の取調べを受けて供述調書二九通が作成されている。そして、被告人は右取調べの間、当初は犯行を否認していたが、同月一三日には国賠訴訟での証言の意図を供述しはじめ、同月一四日以降自白調書が作成されている。具体的には、53・3・14検面(検三一一)、53・3・16検面二通(検三一二及び三一三)、53・3・17検面(検三一四)が自白調書にあたる。

右被告人の自白調書の主要な供述内容は、おおむね次のようなものである。

<1> 53・3・14検面(検三一一)

「国賠証言の際、電話の順番(<1>B電話<2>丙谷電話<3>丁沢電話<4>丁岡電話<5>丙林電話)については、49・4・23員面の小島調書作成の際にもその順番を述べ、調書の記載の順序が述べたことと違うことを読み聞けの際に気が付いていたが、いちいち訂正を申し出たり書き直してもらうのも酷な気持ちがして別に異議は申し立てなかったと証言した。

49・4・23員面当時は電話の前後の順序ということは記憶が混沌としていて、電話の前後の順序を述べることができるような記憶はなかった。だから、調書の読み聞けの際に電話の順序が違うことに気が付くこともなく、ありえないことを証言したものである。

なぜこういう証言をしたかというと、自分が証言した電話の順序が割合早い時期から記憶として証言時まで一貫して持続している、すなわち私の証言している事実が間違いないものだという点を合理化して強調しようという意識が働いていたことに加えて、小島調書の読み聞けの時にちょっと私の気持ちとしっくりしないという印象もたしかにあった。

それで、小島調書時に電話の順序などは当時大体私自身分かっておらず、そのことは証言時においてもわかっておりながら、私の証言が一貫したものであることを理由づけて強調しようという意識が働いて、記憶と相反する証言をしてしまった。

この事実については私としてもこの場で率直に認める。」

<2> 53・3・16検面(検三一二)

「丙谷電話については、五月三〇日の弁護団会議で丙谷電話のことが紹介された際に記憶として蘇った。

したがって、前に検事に、丙谷電話の件は六月の走行実験後戊田が管理棟事務室を一度出たことを思い出したのにつれて思い出したように述べたが、その点は実際にはこの五月三〇日の弁護団会議の話で思い出した。

その電話の時間については時間を特定しうるような記憶はなかったが、弁護士の話では丙谷が午後八時ちょっと前位と言っているというので、それなら午後八時ちょっと前位のことであったのであろうと思っただけで、その時間までは記憶が蘇ったわけではなかった。

そして、午後八時には戊田は若葉寮職員室にいたということは間違いのないことと思っていたので、理屈の上からは午後八時ちょっと前位の丙谷電話のころに戊田が管理棟事務室を出て行ったのであろうと推測した。要するに、丙谷電話の時間そのものの記憶は私には初めからないわけで、この点は証言時も現在も同様であり、ただ丙谷電話が午後八時ちょっとぐらい前という情報を元にして、午後八時の戊川電話の時に戊田が若葉寮職員室にいたという知識を結び付けて、証言では戊田が管理棟事務室を出て行ったのは丙谷電話の前後ころであると思うと証言をしたもので、私の記憶の上では、過去、現在とも戊田が事務室をいつごろ出て行ったのか、その時間が何時何分なのか、さらには管理棟事務室でどんな出来事ややりとりがあった時のことであるのか、思い出せない。

電話の順序については、丙林電話が最後であったことは、六月の走行実験直後には確かに記憶として取り戻していた。また、記憶というより論理的な順序として、丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話の順序であり、五月三〇日の弁護団会議で丙谷電話を思い出したときに、この三本の電話の順序はきちんと並べることができた。

問題は、大阪放送関係の電話がB電話より前であるのか後であるのかという点であるが、B電話が午後七時四〇分ころであるということは、確かな裏付けがあると小島からも聞いていた。B電話より丙谷電話の方が遅いという順序についての記憶はないものの、丙谷電話が午後八時ちょっと前という情報と、B電話の前に私や乙谷、沢崎、戊田がお茶を飲んだりものを食べたりしていた印象とが一体となって、B電話よりも丙谷電話の方が後ということでいいのだろうと自分で思い込んだ。

この点に関しては、国賠証言で私自身が五本の電話の順番を記憶として思い出した上で証言したというように述べたが、実際のところ、私の記憶と情報として得た知識とを厳密に区別するならば、電話の順序としては記憶にあるのは丙林電話が一番あとであったということと、丙谷電話、丁沢電話、丁岡電話が一連の流れの順序になるということだけで、B電話を基準として丙谷電話等の三本の電話がその前なのか後なのか、それを順序付けるに足る記憶は、三月一九日以降証言時を含めて今日に至るまではっきりしない。

国賠証言で、電話の順序が49・4・23員面での小島の取調べ当時から証言時まで一貫した記憶であると証言した理由は、私は沢崎が無実である、えん罪であると信じて、沢崎を心から支援してあげたいという気持ちを持っていた。そのためには、沢崎がX殺害の時間帯に私や、乙谷、戊田らと管理棟事務室に一緒にいた、すなわち、午後八時一五分までは少なくとも沢崎は管理棟事務室を一歩も出ていないというアリバイが証明されなくてはならない。そのための国賠訴訟であるから、アリバイ証明の証人である私の証言があやふやで記憶もはっきりしないということでは裁判官に沢崎の無実を強く訴えることができない。それで、証言時には私の記憶としてはなくても、これまで弁護団会議や職員会議などで聞いたりした情報が私の知識としてあるので、私の記憶が正確で一貫性があり信用するに足るものであることを裁判官に強く印象付けて、沢崎のえん罪を晴らすために役立てたいという気持ちから、自分の本来の記憶にないことでも知識として知っていることを、あたかも自身の記憶であるかのように証言してしまった。この点、自己の記憶と相反する証言をした事実を認める。

私は、人間としてまたキリスト者として、えん罪に泣く人を心から支援して助けてあげたいという純粋な気持ちで動いてきたつもりである。いささかも不純な動機ではなかったことを理解願いたい。」

<3> 53・3・16検面(検三一三)

「乙谷と丙林との間で午後八時四五分の約束時間を決めた際に、乙谷に私の左腕にはめていた腕時計を見せ、私も自分の腕時計をチラッと見たが、そのとき、時計の文字盤の針が何時何分を指していたかという記憶は、事件直後からもずっとなく、国賠証言時においても記憶として喚起できていたわけではなかった。

一方、私が学園から新聞会館まで向かう一連の行動の過程において、どこかで八時一五分の時計を見たすなわち八時一五分を針が指している文字盤のイメージというものは、三月二六日の走行実験のころから頭のすみにチラチラしていた。

六月七日、同月一一日の走行実験の結果、私の運転で三三、四分で走れるということに強い自信を持った。特に二回目の走行実験後、武並刑事部長から『園長やっぱりあなたの言われている時間に学園を出てますな』と認めてもらい、私としては検察庁のお墨付きをもらったという気持ちで走行実験の結果にきわめて強い自信を持ち、走行所要時間から計算すると午後八時一六、七分に学園正門前を発車すれば、私のいう午後八時五〇分に間に合うことができると考えた。

そして、乙谷と私の時計を見た時の時刻は、正門前出発時刻よりも少し早くなくてはならないから、乙谷とともに時計を見た時刻は午後八時一五分でなくてはならないという頭の上での理屈をつけた。そして、一方において場所はどこかボヤッとして分からないが、八時一五分を指している文字盤のイメージがそれだけ別個の形であった。そして、走行実験の結果から計算上頭の中での理屈付けで出てくる午後八時一五分という時刻と、場所と結び付かない八時一五分を指している時計のイメージが時刻がたまたまピタリ一致するものだから、その八時一五分を指している時計のイメージを乙谷と午後八時四五分の約束時間を決めるときに見た時の時刻であると、理屈の上で結び付けた。

結局、約束時間を決める際に私と乙谷とで時計を見たときの時刻というものは、当初から、その後も記憶としては喚起できたわけではなく、走行実験後も証言時もこの時の時計の時刻というのがわからないということであり、頭の中で走行実験の結果にあわせて設定した時刻である。

そういうことからすると、私が管理棟を何時何分に出発したかということについては、私自身時計は乙谷とともに見たものの、その時の時計の時刻が何時何分という記憶そのものがないわけで、午後八時一五分というのは走行実験の結果から計算上設定した時刻であるから、私の記憶のみから言うならば、管理棟事務室内に何時何分までおったということは言えない。

したがって、私の記憶そのものだけから言うとすれば、午後八時一五分まで事務室内におったということも言えないし、何時何分までいたということも言えない。

国賠証言で六月九日と一一日に現場検証したときにやはり午後八時一五分であったということを鮮やかに思い出したということと、さらに、走行実験の結果それが記憶喚起の要因となって、三月一九日管理棟事務室で乙谷とともに見たときの時計の時刻が八時一五分であったことを鮮やかに記憶として取り戻したという趣旨の証言をしているが、これは、私の証言の際の言葉の表現がきわめてまずかったわけで、私自身の記憶、すなわち私が三月一九日にこの身で体験したことを記憶として思い出したということと、走行実験の結果、計算上設定した午後八時一五分という時刻とを十分区別せずに言葉の表現としてはそれがいかにも三月一九日その当時真実に体験したことを記憶として取り戻したかのように強調して表現してしまった。その意味において、私の頭の中で理屈上認定した午後八時一五分という時刻を証言の際の表現では、走行実験後自分の記憶として思い出したかのようにオーバーに証言してしまった。」

<4> 53・3・17検面(検三一四)

「乙谷が丙林と電話で午後八時四五分の約束時間を決めるときに、乙谷は時計を持っていないので私に『園長時計を見せてください』と言い、私が腕時計を乙谷に見せてあげるとともに、私自身も自分の時計をチラッと見たわけだが、その時時計の針が何時何分をさしていたかということは、昨日も述べたように、この当時から国賠証言時さらには現在に至るまでも、私自身の記憶としては蘇ってこない。」

2  検察官の主張とそれに対する判断

(一) 検察官の主張

検察官は、「被告人の勾留中は、ほぼ毎日弁護人の接見が行われ、かつ、被告人の支援者らによる激励のシュプレヒコールがなされていたもので、被告人が虚偽の自白をしなければならないような状況下に置かれていたとは考えられない」としたうえ、被告人の取調べ状況について、「検察官加納駿亮は、被告人に対して非常に慎重かつ丁寧な態度で取調べに臨んでおり、その取調べも、終了時刻が、時には午後一一時を過ぎることもあったとはいえ、開始時刻も午後二時ないし三時ころと遅く、途中には夕食休憩をはさみ、かつ被告人の健康状態にも留意しつつ行われていたもので、加納検事の取調べ状況について自白の信用性を疑わすような状況は存しない。また、取調べ方法についても、主として、被告人の過去の供述状況に関する証拠を見せ、あるいは告知して説明を求め、矛盾点等を質問して行くというものであって、何ら不当なものではなく、右のような取調べの中においてなされた被告人の自白に信用性があることは明らかである」旨主張する。

(二) 弁護人の接見と激励のシュプレヒコールについて

(1) 検察官は、「被告人の勾留中は、ほぼ毎日弁護人の接見が行われ、かつ、被告人の支援者らによる激励のシュプレヒコールがなされていた」旨主張する。

証拠によれば、被告人に対しては、弁護人の接見がほぼ毎日行われ、かつ、支援者らによる激励のシュプレヒコールが毎日のようになされていて、被告人も激励のシュプレヒコールを聞いており、「勾留中は毎日のように支援者からシュプレヒコールがあった。孤独な状態だからシュプレヒコールは精神的には有効だった」旨供述していること(一審公判供述)にも照らすと、このような取調べ状況のもとでなされた被告人の自白には信用性を認めるに足りる外形的状況があると一応いうことができる。

(2) もっとも、接見や激励のシュプレヒコールがその供述の信用性に真に意味をもつのは、それが被告人に対して効果がある場合でなければならないのであり、その意味において、弁護人が指摘する次の点を考慮せざるを得ない。

ア まず、弁護人の接見は、ほぼ毎日行われたが、接見の指定などをめぐって検察官と弁護人との間に争いがあり、準抗告により接見が認められるなどしたものであり、接見の時間も短時間であって、接見としては十分なものとはいいがたかったことである。

そのため、弁護人との間で十分な意志疎通をはかることが難しく、接見禁止決定を受けていた被告人としては、心配していた家族の近況等を聞けるのは弁護人との接見の機会しかないのであり、そのことに関する話が中心となり、取調べ状況等についての立ち入った話がほとんどできないこともあり得るところである。

被告人は、「弁護人との接見を通じて、言いたいことも言えなかったし、聞きたいことも聞けなかった」、「家族のことがもっとも気になるので、話も自ずからそのことになってしまい、わずかな接見時間内に、弁護人に対し、事件のこととか、自分の追い込まれている心境のことを話すゆとりが持てず、接見によって気持ちが安らぐというようなことはなかった」旨供述しているのであるが、その意味において右供述は理解できるところである。

イ 次に、後記のとおり、被告人は、取調べ検察官から弁護人に対する批判を聞かされていたということである。

この点について、被告人は、「弁護人への信頼感が揺らいでいく一方、被告人自身は着ているものも汚れ、髪も伸びてきて不潔になり、気持ちも惨めになっていくのに、接見に来る弁護士はスマートで清潔な格好をしているので、だんだんと気持ちの上で弁護人との異和感を強めていき、検察官の批判を無批判に受け入れるようになって、この弁護士に頼っていて大丈夫なのだろうかという気持ちになっていった」旨供述するのであるが、この供述も理解できるところである。

(3) なお、被告人は、「弁護士との接見室に、盗聴器が付けられているのではないかという気持ちを逮捕初期の段階からずっと持っており、弁護士に言いたいことも言えず聞きたいことも聞けなかった」旨供述する。

しかしながら、これを裏付ける事実はなく、被告人自身、そのように思った理由について、「面会室についている呼び出しラジオのようなものが怪しいと思ったりしたことがあるが、なぜそう思ったかと言われれば困る」とか「検察官の調べの際に、検察官から、弁護士との面会時に話した内容が出てきたような気がするが、具体的にはもう分からない」旨供述しているのであり、また、「弁護士にも話しているが、盗聴されていると思った理由については具体的には話さなかった」とか「弁護士の反応は、盗聴されているかも知れないという話だけで終わり、弁護士は調査するとも言わず、後日の報告もなかった」旨供述しているのであり、被告人の供述自体具体性を欠くものといわざるを得ない。

勾留されている被告人が、盗聴をされているのではないかとの疑いを抱くこと自体はさほど不自然なことではないと思われるが、仮にそうであったとしても、右のように被告人の供述内容が具体的でなく、その対応も不十分であることからすると、検察官が主張するように、それは極めて漠然とした一過性の単なる思い込みであり、被告人において、それによって、弁護人との接見に事実上の支障が生じたとは考えられないというべきである。

(三) 取調べ状況について

(1) 検察官は、「加納は、被告人に対して非常に慎重かつ丁寧な態度で取調べに臨んでおり、その取調べも、終了時刻が、時には午後一一時を過ぎることもあったとはいえ、開始時刻も午後二時ないし三時ころと遅く、途中には夕食休憩をはさみ、かつ被告人の健康状態にも留意しつつ行われていた」旨主張する。

そして、加納駿亮(以下「加納」という)は、「被告人の取調べにおいては、沢崎の殺人事件に関係するものであり、将来的に紛糾する可能性があると思われたので、慎重に行ったという記憶がある。元園長という被告人の立場も考え言葉使いにも気をつけた。取調べはほぼ毎日行い、午後二時か三時ころから調べることが多かった。そして夕食時に一時間ないし一時間半の休憩を取り、平均的には午後一〇時台ぐらいまで取り調べたことが多かったのではないかと思う。被告人の健康状態には気をつけて見ていたつもりであり、遅くなったり、被告人が疲れてきたような状態になった場合は、被告人に取調べの続行についての了解を求めることもあった。被告人は終始真剣に取調べには対応してくれ、自暴自棄になったような態度を見せたことは一度もなく、また、自白を始めるようになったころと思うが、被告人は、『実は、弁護士からは黙秘するように言われているが、自分は自分の判断で話をしている』とのことを述べていた」旨証言する(加納証言)。

右加納証言は具体的であり、その内容に特に不自然なところはなく、その信用性は高いと認められる。そして、右取調べ状況からは、検察官が主張するように「加納が慎重かつ丁寧な態度で臨んだこと」がうかがわれるのであり、被告人の供述の信用性を高めるものと一応いうことができる。

(2) しかしながら、加納の取調べが慎重なもので、被告人に対する配慮がなされていたと一応はいいうるとしても、他方では、以下のような取調べ状況に対する問題点が指摘できるのであり、被告人の供述の信用性を真に判断するためには、これらをも総合考慮する必要がある。

ア 被告人は、昭和五三年二月二七日本件の偽証罪の被疑事実で神戸地方検察庁の検察官によって逮捕され、翌二八日勾留請求がなされ、同年三月一日神戸拘置所に勾留された。

被告人は、関西学院大学文学部心理学科を卒業した後、昭和三四年三月同大学大学院文学研究科心理学専攻の博士課程を終了し、病院勤務をして精神遅滞児施設武庫川児童園(その後甲山学園と名称を変更)に出向し、昭和四〇年同学園副園長に、昭和四七年甲山学園及び北山学園の園長を兼務し、本件事件等により、昭和四九年三月末に北山学園園長を、同年五月五日に甲山学園園長をそれぞれ退職したものであり、社会的地位もありこれまで知識人として家族と平穏な日常生活を送っており、逮捕されることも初めての経験であった。

この点について、被告人は、「最初は逮捕されたことがショックであった。次に手錠をかけられたのが非常に屈辱的な思いをした。拘置所に送られる車の窓から街の情景を見るとき、本当につらい思いをした。拘置所での身体検査や精神病院の保護室と同じような独房に入るなど、本当に辛い言いようのない混乱した状態に陥った」旨供述する(一審公判供述)。

また、被告人の勾留は、昭和五三年三月八日検察官の勾留延長請求が却下されたが、同日検察官の準抗告申立てにより、翌九日、一〇日間の勾留延長が認められた。この点について、被告人は、「勾留延長の通知がきたときは、まだ出られない、もう一〇日間あると、がっかりした(うんざりした)」旨供述する。

このように、本件逮捕、勾留によって被告人が受けた屈辱感と精神的打撃は相当大きいものがあり、さらに勾留延長がなされたことによる落胆も大きかったことがうかがわれるのであり、このような精神状態は、(逮捕、勾留される被疑者に一般的にいえることではあるものの)取調べの背景事情として無視することはできない。

イ 証拠(弁二三五、当審検二二四)によれば、被告人に対する取調べは、被告人が逮捕された昭和五三年二月二七日から被告人が起訴された同年三月一九日までの間毎日行われ、取調べ時間帯は午後からと夜間が中心であり、終了時刻が三月一日および一八日の二日間は午後一〇時四〇分以降、三月二日、四日、五日、七日、八日、一五日、一七日の七日間は午後一一時を過ぎていた。

また、その間、検察官面前調書がほぼ毎日のように作成され、作成されなかったのは逮捕当日の同年二月二七日と三月八日及び一五日の三日間だけであり、全部で二九通にも及ぶものである。

このような取調べ時間、作成された供述調書の数からみれば、右取調べがいずれも午後からであり、夕方には一時間半程度の休憩をとっていること、取調べ終了時刻が午後一一時を回ったうち二回は、その開始時刻が午後七時三五分と午後五時二二分であって、取調べ時間そのものは短いことを考慮しても、その取調べはかなりきびしいものであったと一応いいうるものである。

検察官は、「被告人が自白し始めたのは昭和五三年三月一三日ころからと思われるが、加納の取調べ時刻が午後一一時を回った七回中、五回は同月二日から同月八日までの間であり、その後は、同月一五日(ただし、取調べ開始時刻は午後五時二二分)と同月一七日の二回にすぎず、加納の取調べ時間と被告人の自白との間に関連性を認めることはできない」旨主張する。しかしながら、自白に至るにはそれまでの取調べの経過を無視することはできないのであり、検察官の右主張はとることができない。

ウ 被告人は、拘置所入所時の健康診断によって、高血圧症と診断され、拘置所の医務室から投薬を受け、また、居房においては横臥許可を得ているという状態であった。

そして、被告人は、右イの取調べ時間も含めて、「取調べは連日で、取調べ時間も夜遅くまであり、肉体的には疲労困憊していた。一度は、取調べの終わるのが余りに遅いため、拘置所の職員が見にきてくれ、どうして抗議しないのかと言われた」旨供述(一審公判供述、当審公判供述)する。

この点については、加納が、「被告人の健康状態には気をつけて見ていたつもりであり、遅くなったり、被告人が疲れてきたような状態になった場合は、被告人に取調べの続行についての了解を求めることもあった」旨証言し、被告人も事務官から健康状態について聞かれたことがあったことは認めていることに照らすと、相応の配慮がなされていることが一応うかがえるのである。

しかしながら、前記のとおり連続してかつある程度長時間の取調べがなされたことは事実であり、これに、拘置所の日課では、夕食が午後四時二〇分から午後四時五〇分、仮就寝が冬期は午後六時、就寝が午後九時であったが、被告人は右取調べのためそれに従うことができず、夕食はいつも既に冷めたものを独房で食べるとか、周囲が寝静まった後に一人で独房に戻る状態にならざるを得なかったこと、当時は二月末から三月中旬という時期であり、いまだ寒さの厳しい季節にあたっていたため、独房へ戻っても寒さのため容易に寝つけない状態であったと思われることにも照らすと、「肉体的には疲労困憊していた」旨の被告人の供述は一概に排斥できないといわざるを得ない。

検察官としては一応の配慮をしたとしても、右取調べ状況からは右のような状態になることは避けられないところであり、休憩といっても夕食だけであり、それも冷めたものを食し、その後また取調べを受ける状況にあったのであり、たとえ加納から体調等を問われたりして、後記のとおり、真摯な態度で取調べを受け、検察官には話せば分かってもらえると思っていた被告人にとっては、休憩をとることよりも取調べを受けて説明をすることを選ぶことは自然なことであり、右配慮があったことを強調することには疑問がある。

(四) 取調べ方法について

検察官は、「加納の取調べ方法は、主として、被告人の過去の供述状況に関する証拠を見せ、あるいは告知して説明を求め、矛盾点等を質問して行くというものであった」旨主張し、この点について、加納は、「取調べの方法としては、被告人がどのような場面でどのような供述をしているかということを被告人の供述調書や捜査復命書、被告人のメモなど、その供述状況を丹念に追いながら、被告人の国賠証言内容と矛盾がある場合に、その点について国賠訴訟時に本当に記憶があったのか否かを追及していった結果、被告人が自白をしたものであって、何ら不当なものではない」旨証言する。

これに対して、被告人は、「検察官の取調べ方法は、資料をいっぺんに出すのではなくて、あとからあとから出してくるので記憶が混乱してしまった」旨を供述するので、加納の取調べ方法がどのようなものであったのかについて、以下、検討する。

(1) 加納証言、被告人の一審公判供述及び当審公判供述に加え、被告人の各供述調書の記載内容を総合すれば、加納の取調べ状況については、次のような特徴が指摘できるのであり、この点に関しては弁護人が正当に指摘するところである。

すなわち、<1>加納は、被告人の取調べに先立ち、国賠訴訟の記録、第一次捜査の関係者の警察官調書や検察官調書、さらには捜査復命書等を検討し、被告人がどういう供述をどのような場でしているのかを丹念に調べあげ、供述の変遷状況等を捉え、それを取っ掛りとして、丹念に肌理細かく注意をして取り調べる方針で取調べに臨んだ。そして、変遷し矛盾のある供述部分については、当初は被告人からその供述に従って調書化したうえで、それをその後別の資料をもって突き崩し、矛盾を拡大するというものであった。<2>加納は、被告人が述べる事実について、例えば、電話の順序に関しては、それが職員等からの情報に基づく「知識」であるのか、真実の「記憶」であるのかを、また、電話の時刻に関しては、走行実験の結果思い出した「認定事実」であるのか、実際に「記憶」としてよみがえったのかを、厳密に区別させようとして追及し、被告人が「記憶」であるとする事実については、いつ、どういうことから思い出したのかという根拠をさらに追及するというものであった。<3>右の矛盾がある場合や右の厳密な区別のため、その追及にあたっては、例えば、「具体的状況はどうだったのかということを、映画に逆に返して見るような一コマ一コマ動かして行くような、そういう肌理細かい質問をして」、微に入り細をうがつ執拗な尋問を行ったというものであった。<4>さらに、加納は、被告人に対して捜査復命書や押収した資料を直接指摘して追及する方法を取っていたが、それらの資料を一度に出すことはなく、被告人の追及の仕方と相まって、結果的にはそれを「小出し」にしていたと評価できるものであった。

(2) このような検察官の取調べ方法自体については、そのいずれも必ずしも不当なものとはいえないものであるが、本件においては、そのような取調べ方法が、結果として被告人を混乱させたおそれが否定できないのである。

ア すなわち、<1>については、本件で問題とされているのは、かかってきた電話の順序とか電話の時刻に関するものであり、いわば日常的な出来事であって記憶に残りがたいものであり、しかも、正確に長期間記憶しがたいものでもあるため、時間の経過により記憶の微妙な変遷や矛盾があっても不思議ではないといえる。このような出来事に関して、検察官は、資料を詳細に検討したうえで被告人にその変遷や矛盾をつきつけ、丹念に肌理細かく質問し、その矛盾を拡大し、さらに、<4>のように資料の小出しにより、いったん整理がついたかと思うとまた別の資料を出すといったやり方で、被告人を混乱させるおそれのあったものである。

イ また、<2>については、そもそも、通常、ある情報を与えられることによって記憶を喚起することは多く、また、ある情報を与えられたとき、その情報の内容それ自体を記憶として喚起することがあるのであって、情報による「知識」と真の「記憶」を区別することは極めて困難である。しかも、それが一定の日時を経た後には、情報に基づく「知識」も「記憶」もいわば混然一体となって、それを分別することはより困難になるというべきである。本件で問題とされたのは、記憶に残りがたい出来事であるうえ、事件後様々な情報に接する機会があったのであり、事件後間もないころであればまだしも、国賠訴訟時で約二年、本件取調べ時で約四年の歳月が経過していることを考慮すれば、情報に基づく「知識」と真の「記憶」を厳密に区別させようとすること自体、困難を強いるものであり、ひいては記憶の混乱を引き起こしかねないものである。そして、記憶を喚起したという場合には、さらにそのきっかけを追及され、しかも、その際の情景や出来事という具体的状況を追及され、それが答えられなければ記憶ではないと追及されるのであり、被告人にとっては「果てしなく」思われたというのも理解できるところである。

さらに、「認定事実」か「記憶の喚起」とかいうことであるが、それは、すぐれて人の内心に属する微妙このうえない事項にかかるものであって、実際にはそれを区別することは極めて困難であり、それを明確に区別することで追及を受けていくことは、右同様に、困難を強いるものであり、ひいては記憶の混乱を引き起こしかねないものであって、「果てしない論争」ともいえるものである。

ウ なお、右<4>に関して、被告人は、検察官が捜査復命書の一部を告げなかったとして、「自己の新聞会館到着時刻について、捜査復命書には五〇分との記載があるにもかかわらず、その点を告げず、『あなたは、到着時刻を五〇分と言っているが、八時四五分を二、三分遅れて到着したという捜査復命書がある』旨のことを言われ、自分の記憶は不確かだなと思わされた」旨供述する。しかしながら、この点について、加納は、「捜査復命書の内容を全部読まずに、被告人の供述が記載されている部分のみを告げるということはあったが、その場合には、その供述部分はすべて読んでおり、一部分を省略するようなことはない」旨証言している(加納証言)のであり、被告人の新聞会館到着時刻に関する右捜査復命書の記載は、「丙林と午後八時四五分に会う約束をした。丙林と会ったのは、約束より、二、三分遅れたとの記憶があり、午後八時五〇分ころであったと思います」というものであるところ(49・6・17捜復)、この点に関する被告人の検面の記載は、検察官の問いとして、「『鈴木和男巡査が作成した捜査復命書の記載によれば、丙林さんと会ったのは約束の時間(八時四五分)より、二、三分遅れたという記憶があり、午後八時五〇分ころであったと思う』という趣旨の記載があるが、あなたは当時このような供述をしていたのですか」(53・3・5検面検二九七)となっており、検察官が捜査復命書の記載内容をそのまま被告人に告げて質問しているのであって、被告人の右弁解は事実に反しており信用することができない。

(3) 以上に加えて、次の点が指摘できる。

ア すなわち、被告人は、検察官の取調べに対して極めて真摯な態度で誠実に対応していたということであり、この点は、加納自身も認めるところである。

そして、被告人は、検察官が示す資料(例えば、被告人が供述したとされる捜査復命書)に記載された事項については、警察官は被告人が述べたことをそのとおりに書いてくれるものと信じて、その記載内容に記憶がなくとも、その内容を否定したりすることはなく、また、昭和四九年当時に検察官から事情聴取を受けた経験から、検察官は「嘘を言って人をだますような人ではない」、「話せばわかってくれる」という根強い印象を持っていた。そのため、被告人は、検察官の言うことには嘘はなく、真剣に説明すれば必ず理解してもらえるという姿勢で、真摯な対応を続けたのであり、そのことによって混乱に一層拍車をかけた可能性が否定できないのである。

イ また、被告人は、「検察官は、『原記憶というものは、もっと事件に密接した日に思い出したものをいう』と言い、『論理的な思考過程を経てある事柄を思い出した時に、ああそうだったとか、ああよかったとか色んな感情が生じるが、その感情とぴったりあったものが、私の蘇った記憶である』という被告人の説明に対し、『そういうものは記憶とはいわず、認定事実という。法律的にみたら、それは記憶とはいわない』と言ってとりあげず、法律の世界には法律の世界の論理があり、心理学の論理は通用しないと決めつけられた」旨の弁解をする。

この点について、加納は、被告人の右弁解を否定し、「走行実験の結果思い出したこと法律的に『記憶』とは言わないと被告人に言ったことはない」旨供述する。

しかしながら、加納は「認定事実」という言葉を自ら言ったことは認めていることや、供述調書の記載からは、被告人が弁解するような趣旨のやりとりがあり、いわば論争のようになったことがうかがわれるのである。

ウ なお、被告人は心理学の専門家であるから、「認定事実」と真の「記憶」との違いは十分理解したうえで自白調書のように供述しているのではないかとの疑問もあり得るのであるが、この点について、被告人は、「加納との果てしない論争に破れた」旨供述する(公判供述)のであり、いかに被告人が心理学の専門家であったとしても、身柄を拘束されて加納の取調べを受け、しかも、前記のとおり、供述の変遷や矛盾を追及されていたものであるから、そこには自ずから限界があるのであって、加納が法律家でありその知識に基づいて主張しているのに対し、一般社会内での論争のようにはいかないのであり、右被告人の供述するところは十分あり得ることである。

3  取調べ状況に関するその余の弁護人の主張とそれに対する判断

弁護人は、被告人の取調べ状況について、右2で検討した以外にも、<1>国賠証言を高名な心理学者に見せたと発言したこと、<2>偽証罪における自白による刑の免除規定を見せたこと、<3>不当な弁護人批判をしたこと、<4>被告人及び乙谷に対する誹謗があったこと、<5>沢崎が犯人であることを強調したことを指摘し、被告人の自白には信用性がない旨主張するので、以下、検討する。

(一) 国賠証言を高名な心理学者に見せたと発言したとの主張に関して

(1) 被告人は、「逮捕されてごく初めのころ、加納から、被告人の国賠訴訟の証言調書を高名な心理学者に見せたところ、偽証の疑いが濃厚であると言ったと告げられた」旨供述する。

これに対して、加納は、右事実を否定し、被告人の国賠訴訟の証言調書を心理学者に見てもらったことはなく、園児の証言について精神医学者や心理学者に鑑定を受けていたので、そのことを被告人に告げたことがあり、被告人はそのことと勘違いしている旨を証言する。

(2) 被告人の公判供述と加納証言を対比すると、取調べ中の出来事に関しては、細部には違いがあるものの、おおむね合致しており、その評価において大きく異なっているにすぎないということができる。したがって、基本的には双方とも信用性が高いという面を持っている。

その意味において、唯一食い違っているともいえるこの出来事に関しては、被告人がことさらこの点について虚偽の供述をするとは考えられないこと、加納が被告人が勘違いしたという園児供述の鑑定の話はなかった旨被告人は供述していること、右園児関係の鑑定書はBの証言に関するものであれば昭和五三年四月になって作成されたことがうかがわれるのであり、加納は、加納証言において、鑑定書を見たと供述しながら、この点を指摘されると鑑定の結果を聞いた旨訂正する供述をしていることに照らすと、被告人の供述を信用すべきと一応いうことができる。

(3) 弁護人は、被告人が加納から右の事実を告げられたことについて、「同じ心理学者の中に被告人に疑いをかける者がいることは、被告人に対して大きな衝撃を与えるものであり、このような加納の発言もまた、被告人の自白調書の信用性を減殺するに足りる事情である」旨主張する。

しかしながら、被告人が加納から告げられた時期は「逮捕されてごく初めのころ」であること、被告人自身、「心理学者が直接当該人物に面接もしないで結論を出すということは、ブラインドアナリシスとして、厳に戒められている。そのような診断は判断を誤る可能性が大きい」旨供述しているのであり、それと同視できる右のような心理学者の言葉によって大きな衝撃を受けるとは考えられないところであり、結局、右加納の発言による影響は極めて少ないといわざるを得ない。

(二) 偽証罪における自白による刑の免除規定を見せたとの主張に関して

(1) 被告人は、「逮捕された初期のころ、検察官から六法全書を見せられ、偽証罪の条文を見た。偽証の罪の次の条項に、自白すれば許されるという意味の規定があって、これが大変大きな誘惑となった」、「初期のうちはそういうことに迷わされてはいけないと思っていたが、終わりの方になると、それに逃げ込みたくなる気持ちになった」旨供述する。

この点について、加納は、六法全書を見せた時期、回数は別として、六法全書の偽証罪に関する規定の部分を見せたことがあることは認めており、また、自白による刑の減軽免除規定(刑法一七〇条)についても、六法全書を見せた際、被告人が右規定を見た可能性のあることを肯定している。

(2) 偽証罪に刑の免除規定があるのを見たからといって、その後にその規定のことを考えて被告人が虚偽の自白までするとは考え難いとはいいうるものの、これまで検討した被告人の取調べ状況等を照らし合わせると、誰からも信頼されずかつ誰も信頼できないという孤立感や、どのように説明しても加納に納得してもらえないという絶望感等から、右規定を誘惑的と感じ、刑が科せられないなら自白してしまった方が楽だという気持になったとしても、不思議ではないと一応いうことができる。

(三) 不当な弁護人批判をしたとの主張に関して

(1) 被告人は、加納が、国賠訴訟の弁護団、すなわち、被告人の弁護人のことを、技術的に未熟であるなどと批判を繰り返してきた旨を供述する。そして、加納も、弁護団の活動について批判する発言をしたことがあることを認め、「国賠訴訟の弁護団の活動についてかなり批判をする言動をした」旨を供述する。

具体的には、被告人は、例えば、「逮捕された時に、加納が、弁護士に関して被告人に同情的な感じがする発言をした。弁護士はまだ若くて未熟で、そういう未熟な弁護士の栄達のため道具に使われた。国賠訴訟という大それたものを起こすのはもっと熟達した弁護士を選ばないといけない。もう一つは、家宅捜査された対象の中に弁護士事務所もあると弁護士が思い込み、大慌てで書類などを運び出そうとしていると、非常に嘲笑的に言って、そういう弁護士はあてにならないと言った。それから、国賠訴訟の証人になるとついつい張り切って偽証にわたる恐れのあるようなことまでも発言し始めるのが常だから、それを抑えることが弁護士の役目だと、それを抑えきれなかった、あるいはそれを挑発させた、そういう弁護技術の不味さを盛んに言われた」旨供述する。

そして、加納は、例えば、「弁護士が関係者と会いに行って事情を聞いた際に、相手に黙って隠し録音をするのはフェアではないのではないか。沢崎の当初の弁護人と対比させて、当初の弁護人は職員が意思統一するのはおかしいとたしなめているのに対し、国賠訴訟の弁護団は、沢崎の釈放後さして日時も経過せず刑事処分の結果も出ない段階で、いきなり国賠訴訟を提起したのは、慎重さを欠いているのではないか。国賠訴訟の弁護団は、その年の四月に弁護人になったものが中心で、弁護人として十分経験を積んでいないので未熟な面もあるのではないか。被告人が国賠訴訟で証言するにあたって、準備をすることはいいが、事件全体にわたる立証計画のようなものまで渡したりするのは、かえって証人を作ってしまうことになるのではないか。そういう批判をした。また、自白した後と思うが、国賠訴訟での被告人に対する尋問について、尋問の技量として拙劣である未熟だということも言った」旨供述する。

(2) 検察官は、「加納が、被告人に述べた弁護団の活動についての批判内容は、内容自体何ら不当なものでもなく、弁護団の活動方針や活動方法に疑問があるとの自己の意見を述べているにすぎないものであって、これが被告人の自白の信用性に影響を与えるようなものでないことは明らかである」旨主張する。確かに、取調べの過程において、取調官が弁護人に対する自己の意見を述べること自体は許されないことではなく、それが弁護人に対する批判であったとしてもことさらに問題とすべきではなく、また、右の批判内容についても、一面からみれば「何ら根拠がなく不当なもの」といいきれないものであり、検察官の主張も一理あると思われる。

しかしながら、被告人は、当時身柄を拘束されて刑訴法八一条の接見禁止決定を受けていたものであり、外部との窓口は唯一弁護人だけであったのであるから、そのような弁護人批判が、結果として、被告人の弁護人に対する不信感を醸成させて弁護人から離反させる危険性があったというべきである。そして、実際にも、被告人は、弁護人に対する信頼を失ってきているのであって、「拘置所にいるので気持はだんだんだんだん惨めになって来る。着ているものも汚れてくるし髪の毛も伸びるし、大変不潔な状態になってくる。そして、接見に来る弁護士が大変スマートな清潔ないい格好をしているので、だんだんだんだん気持にそぐわなくなってくる。そういうものが背景になって、検察官の弁護士に対する批判がだんだん抵抗なく受け入れられ、私の気持の一部にもなってきて、ひょっとしてこの弁護士たちに頼って大丈夫なのかなという感じがあったことは事実である。弁護技術のまずさを言われ、弁護人に対する信頼感が失われて行くというようなことがあったことは残念ながら事実である」旨供述しているのである。この点については、加納も、「被告人が、『私自身は必ずしも弁護人を全面的に信用しているわけじゃありません』と言っていた」旨供述し、被告人が弁護人を信頼しなくなっていることを認める証言をしているのである。

そして、このことは、被告人に弁護人に対する不信感を植え付け、弁護人から切り離して孤立化させることになりかねないものであり、被告人の自白の信用性を考えるうえで大きな意味をもつものというべきである。

(四) 被告人及び乙谷に対する誹謗があったとの主張に関して

(1) 弁護人は、「加納が、被告人に対して、被告人が沢崎と男女関係があるという話もある旨を述べているが、キリスト者としての被告人にとっては極めて心外なことであり、他人からそのように見られていると思うことは、そのことだけで極めて大きな衝撃であって精神的に多大の混乱をもたらした。加納の右発言は、被告人を混乱に陥れ、かつ、沢崎に対する関係において沢崎を忌避しようとする動機の一つを形成した」旨主張する。

弁護人主張のように、加納は、被告人に対して、被告人が沢崎と男女関係があると言っている職員がいることを告げたことがあることを認めている(加納証言)のであるが、その影響については、被告人自身が明確な供述をしていないので、弁護人主張のようにいえるのか疑問である。

すなわち、弁護人は、被告人が自白した動機に関して供述した53・3・16検面(検三一二)の「私は人間としてまたキリスト者として、えん罪に泣く人を心から支援して助けてあげたいという純粋な気持ちで動いてきたつもりである。いささかも不純な動機ではなかったことをご理解願いたい」との記載をその根拠にし、被告人も、右記載は被告人が沢崎と男女関係があると言っている職員がいることに関する弁明であると思う旨供述している。しかしながら、加納は、「右記載は偽証の動機が無実をはらしてやりたいという気持ち、それ以外の動機ではないという意味である。不純な動機というのは、利益の供与を受けたとかであり、男女関係のこととは全く関係ない」旨供述していること、被告人は、男女関係の話が出たのは取調べのごく初期であると供述していることに照らすと、右記載をもって弁護人主張のようにいうことには疑問があり、結局、右男女関係の話が被告人にとって極めて大きな衝撃であって精神的に多大の混乱をもたらしたとか、加納の右発言は、被告人を混乱に陥れ、かつ、沢崎に対する関係において沢崎を忌避しようとする動機の一つを形成していたというには、疑問があるといわざるを得ない。

(2) また、弁護人は、「加納は、乙谷の女性問題を中心に乙谷が人格的に信頼できない人物であることを強調し、その結果、被告人は、乙谷に対する信頼をも完全に失って離反させられ、さらに孤立感を強めて行ったのであり、被告人が自白に追い込まれる一因となった」旨主張する。

加納は、「被告人に対する取調べの中で、乙谷が本当に信頼できる人物かどうかを聞いた。また、乙谷が女性関係にもだらしがなく信用のできない人物ではないかと聞き、乙谷と甲山学園の女性職員との親密な関係を示す写真を見せたことがある」旨証言しているのであり、これに被告人が、加納から右のような写真を見せられ、乙谷の人格的なことについていろいろ言われた旨供述していることに照らすと、一応、弁護人主張のようにいうことができる。

しかしながら、被告人は、前記のとおり、もともと乙谷の沢崎の支援活動については同調したり、批判的になったりしていたもので、乙谷に対して完全には信頼していなかったことがうかがわれること、被告人自身、乙谷の女性関係については薄々であるが逮捕される前から知っていたこと、乙谷の人格的なことというのも、被告人が覚えているのは女性関係だけであること、被告人は、それでも心理的影響を受けたと供述する一方で、「影響がなかったと否定するわけにはいかない」という程度の供述をしていることに照らすと、その心理的影響はあったとしても、弁護人が主張する「乙谷に対する信頼をも完全に失って離反させられ、さらに孤立感を強めていった」というような強いものではなかったというべきである。

(五) 沢崎が犯人であることを強調したとの主張に関して

(1) 被告人の一審公判供述及び当審公判供述を総合すると、被告人は、沢崎が真犯人であると思い込むようになったとして、その経緯等について、おおむね次のような供述をする。すなわち、「取調べの当初から新証拠として園児の供述があると告げられていた。勾留延長があってから、加納から、園児供述の内容を詳細に聞かされ、園児が、沢崎がXを連れ出している状況を映画の駒落としのように詳しく説明している、しかも、学園の管理下を離れ自由になって言い始めたので間違いないと言われた。その加納の説明が衝撃的であったので、そのために放屁し視野狭窄に陥り、失神するのではないかと思われた。そこで、加納に今日の取調べは終わってほしい旨述べたところ、加納が、房へ帰ってしばらく休んでも良いがなお続けて取調べを行うと言ったため、寒い房へ帰っても再び取調べに連れ出されるのであればそのまま取調べを続けたほうがよいと思い、取調べを続行してもらった。連日、子供の言っていることは信用できると強調され、そういう証拠があって絶対沢崎が真犯人だ、どうしてその犯人をかばうのかと盛んに言われた。そのため、沢崎が犯人ではないとの確信がぐらついた。それは、閉鎖された一種の極限状態で暗示にかかりやすい状態であったことから、暗示にかかるように思っていたというのがそのころの心境である」というのである。

(2) この点について、加納は、「最初のころ、被告人に対し、沢崎を起訴したが、新証拠があるから間違いないということは言っている。勾留延長の数日後に、園児の新証言があることは被告人に話をしている。被告人の取調べを通じて外部に漏れることを非常に警戒していたので、当初の段階では極力具体的な内容については言わなかった。ただ、後半になって、取調べも核心をついてくる状況になると、どういう証拠を握って取調べをしているのかある程度分からせて説得する必要があると判断して、話をした。何人かの園児の証言があることや、一番迫真的なところで言ったのは、Xの連れ出し場面を具体的に目撃している園児の供述が出ている、それも、映画でフィルムを回すように逐一ずっと見ていたという供述がある、これは再捜査の段階で初めて出てきた証拠だと、この供述の信憑性については心理学者あるいは精神医学者という専門家の鑑定もした、その結果信用できるという鑑定をもらっていると言った。その話の時、被告人が放屁をしたり視野狭窄になったということは記憶がない。被告人が休みたいと言ったが結局取調べを続行したやりとりについては、そんな感じのやりとりがあったような気がする」旨証言しているのであり、大筋において被告人の供述を否定するものではない。

(3) このように、被告人が加納から園児の新供述の内容を具体的に告げられたことにより、その衝撃的内容にショックを受け、次第に沢崎があるいは真犯人ではないかと思い込むようになり、自己のこれまでの言動にも疑問を持つようになっていったことがうかがわれるのである。このことは、加納証言の「被告人は『そういう証拠があることは全く知らなかった。そういう証拠があるとすると、私らがやってきたのは間違いだったのか。これからはそういう意味で、この事件に対するかかわり方も見直して行かなければならないという気持になっている』旨述べていた」旨の供述や、被告人の最後の供述調書である53・3・19検面(検三一八)の「私自身は、沢崎を憎むというよりも、彼女が人間としての本当の姿にたちかえって、今後残りの人生を歩んでいけるように力づけてあげるのが私の勤めだと思う」旨の記載からもうかがわれるところである。

被告人がこのような心境になったのには、これまで検討したような取調べ状況、取調べ方法が総合的に影響し合っているといえるのであり、何ら不自然なところはない。

(4) なお、検察官は、被告人が、「園児が甲山学園の管理下を離れた時の供述であるから間違いないとの話から、当時は、その園児の供述は事件の年の秋ころに出たものであろうと思っていたため、園児の新供述に信用性があると思い込んでしまった。あとで、それが事件後三年ぐらいを経過してのものであることを知り、あの年の子供が三年も経ってそういうことを思い出すのは理解し難いと思った」旨供述した点を指摘し、「加納は、園児の新供述の出た時期が再捜査の時であることを告げた旨供述している。被告人自身、昭和四九年秋ころに、園児の新供述が出たような情報は弁護団会議においても何もなかった事実を認めていること、国賠訴訟は、沢崎が処分保留で釈放になったことから、沢崎のアリバイの存在を明らかにすることを主たる理由として提起されたものであること、沢崎が不起訴処分となったのが昭和五〇年九月であることを考えれば、園児の新供述が出たと言われれば、それは昭和五〇年九月以降と考えるのが自然である。被告人は昭和五三年二月に逮捕され、新証拠が出たからこういうことになったという説明を受けたというのであるから、被告人としては、新証拠が出てきた事実と自己の逮捕とが関連しているとの認識を有したはずであり、したがって、検察官から、園児の新供述の具体的な内容を聞かされた場合、それは、自己の逮捕前の接着した時期に出たものと考えるのが当然である。被告人が『逮捕の三、四年も前に、新供述が出たと思った』などと思うこと自体、極めて不自然なことである」旨主張する。

しかしながら、被告人は、加納から「学園の管理下を離れて自由になったときに言い始めた」旨聞かされており、それを、園児が他の施設へ移るなどしてしばらくした昭和四九年秋ころと考えたとしても、そのこと自体は不自然なことではない。また、冷静に種々の事実を総合すれば検察官の主張のようになるのであろうが、それが考えられなかったからといって、そのことをことさら取り上げて不自然というのは、疑問があるところである。

(5) 以上みてきたように、園児の新供述を告げられたことにより、被告人は、沢崎が無実であるとの確信が根底から動揺させられたのであり、このことは、被告人にとって非常に大きな衝撃であったことがうかがわれ、被告人自身の偽証罪の嫌疑を晴らす気概をそぐという点において決定的な事態であったと評価しうるものである。

4  供述内容からみた検討

(一) 電話の順序に関する自白について

(1) 電話の順序に関する自白調書は、前記のうち<1>53・3・14検面(検三一一)と<2>53・3・16検面(検三一二)であり、その内容は前記のとおりである。なお、右<1>53・3・14検面に記載されている49・4・23員面に関しては、その前に作成された53・3・13検面(検三一〇)でも「丙谷電話があったということは、六月一一日の走行実験以後に思い出したことであるから、49・4・23員面作成時に丙谷電話があったと言えるはずがない。私の言ったことをすべて調書に書いてもらっているわけではないので、丙谷電話のことをそんな段階で言っていないということは私自身も証言時には思っていたが、尋問の流れとして、自分の言ったことはそのとおり書いてもらえなかったという点を強調しようという気持ちが働いて、丙谷電話のことまで小島警部補に言ったという趣旨の、記憶に反する証言をした」旨供述している。

(2) 53・3・14検面では、「国賠訴訟で証言した電話の順序、すなわち、<1>B電話、<2>丙谷電話、<3>丁沢電話、<4>丁岡電話、<5>丙林電話という順序に、49・4・23員面作成の際にもそのような順序を述べたと証言をしている」との確認がなされ、それを前提に質問がなされている。また、右53・3・13検面でも、「丙谷電話があったことを小島に言ったと証言しているがどうか」と質問されている。しかしながら、国賠訴訟における証言をみると、右確認と質問がそもそも正確性を欠いているといわざるを得ない。

すなわち、国賠訴訟では、「49・4・23員面では順番がはっきりしない。沢崎がお花の先生なり、ラジオ大阪の偉い人、それからラジオ大阪に電話したといういう一連の電話については最後の方に書いてある。丙林電話が今の一連の電話より前にある。これはどうしてそうなったのか」との質問に、「時間のとおり申し上げたんですけれどもね」と答え、電話の順序が証言したとおりといえる理由の質問に答え、さらに、「小島警部補の取調べの際に、証人はそういう順番で話したのか」との質問に「たぶんしたと思うんですけれどもね」と答え、右員面で証言のとおりになっていない理由を聞かれ、「当時はその電話の順番がそんなに大事と思わず、こういう電話があった、こういう電話があったぞという総合的な話をしていたと思う」と答えている。また、丙谷電話の記載が抜けていると質問されて、「気付かなかった。そのことは言ったと思う」と答えているのである。この証言によると、被告は丙谷電話にしろ電話の順番にしろ何ら断定的に証言しているのではなく、尋問の流れの中で「たぶんしたと思う」とか「言ったと思う」と証言をしているにすぎないものである。

したがって、被告人としては、国賠訴訟の証言の趣旨を不正確に把握したうえで、偽証の犯意を認める供述をしていると評価せざるを得ないのであり、この点において、右供述に信用性を認めるには大きな疑問がある。

(3) さらに、右53・3・16検面をみると、記憶喚起過程やその間に得た情報等について供述し、「問題は大阪放送関係の電話とB電話の前後関係であるが、私の記憶として、B電話より丙谷電話の方が遅いという順序についての記憶はないものの、丙谷電話が午後八時ちょっと前という情報と、B電話の前に飲食した印象とが一体となって、B電話よりも丙谷電話の方が後ということでいいのだろうと思い込み、国賠訴訟で証言したが、私の記憶と情報として得た知識とを厳密に区別するならば、B電話を基準として丙谷電話等の三本の電話を順序付けるにたる記憶は今日に至るまでない」として、さらに偽証の理由をも供述しているのである。

この検面では、電話の順序に関しては五月三〇日の弁護団会議で知った丙谷電話をもとにしてB電話との前後関係が述べられているのであるが、前記の記憶喚起過程で検討したように、右弁護団会議以前に作成された「乙山春夫の行動」によれば、右丙谷電話の記憶を喚起する前に、既に被告人はB電話と、丙谷電話とは一連の関係にある丁沢電話、丁岡電話の順序を記憶喚起していたことがうかがわれるのである。ところが、右検面では、B電話と丁沢電話、丁岡電話の前後関係、それと丙谷電話との関係などには何ら触れられていないのであり、検察官が、B電話と丙谷電話の前後関係に焦点を定め、五月三〇日の弁護団会議での情報を根拠に、電話の順序に関する被告人の証言は情報から認定した事実にすぎないと追及したことが推測できるのであり、そのような追及は一面的であって、被告人の取調べが事件から約四年後であることにも照らすと、問題があるといわざるを得ない。

(4) そして、前記のとおり、情報による「知識」と真の「記憶」の区別は極めて困難であり、しかも、電話の順序というのは一般的には記憶に残りがたい出来事であるうえ、日時を経ているのである。これに、前記取調べ状況や右検面で記載されている記憶喚起過程や情報を得た経過等については、自白調書以前の供述調書内容とほとんど異ならないのであり、「情報と印象が一体となって」と記載されていることを照らしあわせると、「B電話よりも丙谷電話の方が後ということでいいのだろうと思い込み、国賠訴訟で証言したが、私の記憶と情報として得た知識とを厳密に区別するならば電話の順序に記憶はない」旨の記載は、「国賠証言時には『記憶』と情報としての『知識』は区別し、記憶にあった印象に基づいて「記憶」として喚起できたと思い証言したが、検察官が厳密に区別すると、それは『記憶』とは言わないと言うのであれば、電話の順序は記憶にない」と読み替えることができるのであり、これを自白としてしかもその動機まで記載されているのであり、疑問である。

(二) 丙林電話の時刻(甲山学園出発時刻を含め)に関する自白について

(1) 丙林電話の時刻(甲山学園出発時刻を含め)に関する自白調書は、前記のうち<3>53・3・16検面(検三一三)と<4>53・3・17検面(検三一四)であり、その内容は前記のとおりである。

(2) その中心となる右53・3・16検面の記載内容は、一読してすぐは理解しがたいほど繰り返しと婉曲な表現が多いのであるが、「理屈上認定した時刻」を「自分の記憶して思い出した」と証言したことを認めているのであり、これが、前記の取調べ状況で触れた被告人と検察官との間の「記憶」と「認定事実」の論争の結果である。

前記のとおり、「記憶」と「認定事実」の区別は論理的には可能であるが、ある時点での記憶がそのどちらかであるかを区別することは実際上極めて困難であり、客観的には後者の場合であったとしても、それを主観的には「記憶」が喚起できたと思うこともあり得るのである。そういう意味において、被告人が「認定事実」と「記憶」との区別をどのように認識していたのか、実際には被告人はどういう心理状況であったのか、被告人が記憶が喚起されていたと思っていた際の心理状況はどのようなものであったのか、被告人が認定事実であると考えるに至った理由や心境が、この検面に記載されていて当然と思われるのに、それに関する記載はないといわざるを得ない。右検面の記載内容をみると、被告人のいわば記憶喚起の過程については、それまでの供述内容が維持されているのであり、これまで供述してきた事実関係や記憶を喚起した際の感情が虚偽であると供述しているのではなく、そのことには触れることなく、ただ、その評価として、それは「記憶」として思い出したのではなく、理屈上認定した事実であったことを認めているというにすぎないものである。

このことは、右検面記載の「国賠証言では、走行実験の結果頭の中で理屈上認定した時刻を、真実に体験したことを記憶として思い出したかのように強調して証言してしまった」旨の記載は、前記取調べ状況で判断したとおり、検察官の理詰めの追及により、「国賠訴訟では、真実に体験したことを記憶として思い出したと思って証言したが、検察官が、走行実験の結果頭の中で理屈上認定したものであるから、それは認定事実であって記憶とはいわないというのであれば、それは記憶として思い出しているのではない」と読み替えることができるのであり、これを、信用性のある自白というには、疑問がある。

5  小括

以上を総合すると、結局、被告人の自白については、それを真の自白といってよいのか疑問があり、しかもその内容においてそれを信用するには疑問があるといわざるを得ない。

七  まとめ

以上のとおり、検察官の主張する被告人の偽証の犯意については、これを認めることには疑問がある。

第九  結論

以上検討したきたように、被告人が証言時の記憶に反して虚偽の証言に及んだとする本件公訴事実については、これを認めるに足りる証拠がない。したがって、被告人に対する本件公訴事実については、その証明が不十分であって、犯罪の証明がないので、刑訴法三三六条により無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

平成一〇年五月二一日

神戸地方裁判所第四刑事部

(裁判長裁判官 吉田 昭)

裁判官 小川育央及び同 渡辺美弥子はいずれも転補のため署名押印することができない。

裁判長裁判官 吉田 昭

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